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横浜地方裁判所 平成2年(わ)1592号 判決 1992年12月10日

主文

被告人甲野一郎を禁錮二年六月に、被告人乙川二郎を禁錮一年六月に処する。

被告人両名に対し、この裁判確定の日から四年間それぞれその刑の執行を猶予する。

控訴費用のうち、証人荒井富士男、同武藤寿一、同小西彬仁、同下山一義、同荒井孝司、同古澤富雄、同小﨑徳興、同海老坪幸弘、同平間惣一郎、同田畑政弘、同岡田敏男、同横井時惟、同斉藤邦義、同豊田直樹、同武田良造、同矢吹洋明、同中﨑譲治、同足立敏男、同堅田正治に支給した分並びに鑑定人岩井聰に支給した日当、旅費及び鑑定料は被告人甲野一郎の、証人五十嵐隆太郎及び同池田英治に支給した分は被告人乙川二郎の、その余は、その二分の一ずつを各被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人甲野一郎は、昭和四六年三月防衛大学校を卒業して海上自衛隊に入隊し、幹部候補生学校を経て護衛艦、潜水艦に乗組み、船務士、水雷長、船務長、機関長などを順次経験した後、昭和六二年一月二等海佐に昇任し、第二潜水隊群所属の潜水艦せとしおの副長兼航海長を経て、昭和六三年三月から同群所属の潜水艦なだしお(排水トン数二二五〇トン)の艦長であったもの、被告人乙川二郎は、昭和五三年九月鳥羽商船高等専門学校を卒業し、昭和五五年三月から昭和五八年二月までの間、市川海事興業株式会社において、同社等所有の船舶に一等航海士、船長などとして乗組んだが、その後は、特定の会社に所属せず、契約期間を決めて各種船舶に乗組むなどし、昭和六三年五月ころ、約一週間、第一富士丸(総トン数一五四トン)に船長として乗組み、同年六月下旬ころから再び同船に船長として乗組んでいたものであるが

第一  被告人甲野は、昭和六三年七月二三日、前記潜水艦なだしおの艦橋にあって操艦の指揮を執り、浦賀水道航路を北上して同航路中央第五号灯浮標付近を通過後左転し、神奈川県横須賀市楠ケ浦町無番地所在の在日米海軍横須賀基地に向けて真針路二七〇度、速力約10.8ノットで航行し、同日午後三時三五分ころ、同航路南航路を横断した直後の海上において、艦首右約三〇度、距離約一七〇〇メートルの海上に、自艦進路と交差する角度で同航路にほぼ平行して南下してくる第一富士丸を認めたが、同船のコンパス方位はわずかに右方へ変化する気配はあったものの明確な変化は認められず、さらに、同三六分過ぎころ、自艦左前方の海上を自艦進路と交差する角度で北上して接近してくるヨット「イブワン」を避航するため機関「停止」を発令するとともに「超長一声」の汽笛を発して同ヨットに警告し、同三七分前後ころには同ヨットを自艦左後方へ避航させたものの、その間も第一富士丸のコンパス方位に明確な変化は認められず、自艦の速度も前記機関「停止」により徐々に落ちていた上、同船は既に距離約六二〇メートルに接近してきており、「前進」を発令してそのまま直進すれば同船と衝突するおそれがあったのであるから、海上衝突予防法にいう避航船に当たる自艦の操艦を指揮する被告人甲野としては、直ちに大幅に右転し、あるいは船足を止めるなどして同法にいう保持船に当たる第一富士丸から避航し、もって、同船との衝突を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、自艦が同船の前方を先に横切ることができるものと軽信し、「前進強速」の指令を発して漫然同針路のまま航行を続けた過失により、同三七分半過ぎころ、同船との距離約三五〇メートルに至って初めて衝突の危険を感じ、右時刻ころから同分五〇秒ころまでの間に、先ず「短一声」、「面舵一杯」の各指令を発したが、ハウリングにより、面舵一杯の発令が操舵員に伝わらず、操舵員からの「再送」要求に対して再度「面舵一杯」を発し、続いて機関「停止」の指令を発し、更に同三八分過ぎころ「後進原速」、「後進一杯」の各指令を発して自艦を右転させるとともに減速させたが及ばず、同三八分半前ころ、横須賀港東北防波堤東灯台から真方位108.6度、距離約三一八〇メートル付近海上において、同船の船首に自艦右艦首を衝突させて、同四〇分ころ、同船を右灯台から真方位108.4度、距離約三二八〇メートル付近において覆没させ、よって、同船の乗員及び乗客のうち、別紙一記載の中根晃司ほか二八名を、いずれも、そのころ、同所付近海域において溺死させ、信部保隆(当時三八歳)を、同日、同市田浦港町一七六六番地の一所在の自衛隊横須賀病院において、溺没性肺水腫に基づく呼吸不全により死亡させたほか、別紙二記載のとおり、河原昭ほか一六名に全治まで約一週間ないし約三か月間を要する右手擦過傷等の障害を負わせ

第二  被告人乙川二郎は、前同日、前記第一富士丸を自ら操船し、浦賀水道航路第五号灯浮標のほぼ西方約九〇〇メートル付近海上を伊豆大島方面に向けて真針路一四八度、速力約9.8ノットで航行し、午後三時三三分ころ、船首左約三〇度、距離約三〇〇〇メートルの海上に自船進路と交差する角度で西方に向け航行してくる前記潜水艦なだしおを認めたが、同三七分前後ころには、同艦は既に距離約六二〇メートルに接近してきており、同艦のコンパス方位に明確な変化がなく、かつ、前記のとおり、同艦が前記ヨット「イブワン」に対しても避航のための変針措置を採ることなく直進してきたことから、そのまま航行すれば同艦と衝突するおそれがあったのであるから、被告人乙川としては、直ちに同艦に対して疑問信号を発して同艦の避航行動を促した上、同艦の動向及び同艦との距離等に十分注意しながら航行し、避航船に当たる同艦が衝突を回避するための適切な動作をとることなく間近に接近してきたときには自船が保持船といえども、同艦との衝突を避けるため、直ちに船足を止め、或いは大幅に右転するなどの措置を講じ、もって、同艦との衝突を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、いずれも、これを怠り、同艦に対する疑問信号を発することなく航行を続け、同艦三七分二〇秒前ころ、同艦が未だ衝突を避けるための適切な動作をとることなく距離約四六〇メートルの間近に接近してきた後も、漫然自船の速度を半速としただけで、同艦の動向を十分注視せず、かつ、同艦の発した右転を意味する「短一声」の汽笛の趣旨を理解しないまま同針路で航行を続け、同三八分一〇秒過ぎころ、同艦との距離約一〇〇メートルに接近して初めて同艦との衝突の危険を感じ、同艦が右転していることに気付かず同艦の艦尾方向に回るため自船を左転させた過失により、前記第一記載のとおり、同艦右艦首に自船船首を衝突させて自船を覆没させ、自船の乗員及び乗客のうち中根晃司ほか二九名を死亡させ、河原昭ほか一六名に傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)<省略>

(事実認定の補足説明)

被告人両名及びその弁護人らは、本件事故における被告人両名の過失は、検察官の主張するものと若干異なる旨主張するが、当裁判所は、理由を一部異にするものの、結論において検察官の主張を肯定したので、以下にその説明をする。

一  先ず、本件事故に至るまでの経過事実を認定する前に、関係証拠によって明らかに認められる次のような前提事実がある。(なお、以下においては、公判廷の供述及び公判調書中の供述部分をいずれも公判供述と、検察官に対する供述調書を検面と略称し、司法警察員海上保安官作成の報告文書はその題名を省略して証拠申請番号で特定する。)

1  海上自衛隊では、昭和六三年七月二二日から二四日までの三日間の予定で、伊豆大島東方海上において、自衛隊展示訓練を実施することになっていたが、なだしおもこれに参加するため、本件事故当日の七月二三日午前七時三〇分ころ、横須賀港在日米海軍横須賀基地内第三バースを出港し、同展示訓練を実施した後、午後零時三三分ころ、帰港の途についた。

2  なだしおの艦長であった被告人甲野は、出入港時、狭水道通過時などのほか必要に応じて自ら艦橋に上がり哨戒長の操艦を監督するが、当日も午後二時四五分ころから艦橋に昇橋していた。他の当直員も午後二時三〇分前後ころから順次、交代が行われ、本件事故当時、艦橋には被告人甲野のほか哨戒長として荒井水雷長が、被告人甲野の補佐として太田副長が、見張員として荒井孝司水雷科員がそれぞれいた。また、発令所には第一スタンドに操舵員として武藤水雷科員が着席し、その後方に油圧手アルファーとして小西機関科員、油圧手ブラボーとして下山機関科員がそれぞれ立ち、海図台の前に川村航海科員、第一潜望鏡のところに太田船務士がそれぞれいたほか、他に野村船務長ら数名がいた。運転室には、当直員のほか後記N1運転の実施に備えて待機していた者を含め、主制御盤の前に柿添機関科員(電機員)と小﨑機関科員(電機長)が、その後に古澤機関長がそれぞれいたほか、他に海老坪機関科員(電機員)ら四名がいた。

3  なだしおにおいては、運転区分として、N1からN4まであり、速力区分として、最大戦速、前進強速、前進原速、後進原速、後進一杯、停止などがあり、運転区分と速力区分の組合せは、N1が最大戦速、N2が前進強速、前進原速、後進原速、後進一杯、N3が停止などとなっている。また、通信系は21MC、7MC、テレグラフほか四つの系統があり、21MCは、艦橋と発令所の交話に使用し、7MCは、各区画間相互の片道交話に使用し、テレグラフは、発令所と運転室にあり、艦橋及び発令所から運転室へ機関に関する指示を伝達するために使用するものであり、艦橋、発令所、運転室など各区画にそれぞれの通信系の受送話器が設置されている。

4  なだしおが水上航行中、哨戒長は、自ら又は艦長からの指示を受けて、21MCを通じて発令所に操艦号令を伝達し、発令所の操蛇員は、直ちに21MCで受けた号令を復唱する。その号令が舵角指示の場合、操蛇員は、縦舵を動かすジョイスティックハンドルを指示された範囲まで動かし、舵角指示器で舵が指示されたところへ動いたことを確認した時点で、21MCを通じて舵が指示されたところに設定されたことを「面舵三五度」などと舵角を直接表現する方法で報告する。また、下令された号令が速力に関する指示の場合、操舵員は、直ちにテレグラフを指示された速力に合わせ、運転室のテレグラフに伝え、運転室の制御盤員が指示を受けたところへテレグラフを合わせ、指示を正しく受けたことを発令所のテレグラフに伝えると、操舵員は、直ちに21MCを通じて艦橋に対し、運転室で速力指示を受信したことを「前進強速」などと言って報告する。そして、発令所の航海科員は、下令された針路や下令の時刻を航泊日誌に記載し、運転室の制御盤員は、下令された速力指示や下令の時刻を速力通信受信簿に記載する。なお、航泊日誌や速力通信受信簿の記載事項は右の点に留まらない。

5  なだしおの艦内にはアナログ時計とデジタル時計が設置されているが、アナログ時計は、その長針が三〇秒毎に動く構造になっており、航泊日誌や速力通信受信簿の記載は、アナログ時計によって正分の前後三〇秒を正分として、例えば、三六分三〇秒後から三七分三〇秒前までを三七分として記載することにしていた。

6  なだしおにおいては、事故当日の午前中、N1運転で速力を最大戦速にしたとき絶縁低下が発生し、N2運転に切り換えると絶縁低下がなくなった。その原因は、ソーナーにあるとのことであったが、被告人甲野は、原因を確かめ、翌日の展示訓練までに修理をしておくため、浦賀水道航路を横断してから横須賀港へ入港するまでの間に、試験的にN1運転を行うことにし、指示を受けた古澤機関長や小﨑電機長ら数名が、事故当時に運転室で待機し、試験運転を実施する旨の下令を待っていた。(なお、被告人甲野は、公判供述において、N1運転の回路形成を行うことのみ予定していたのであって、その運転まで予定していなかった旨主張するが、関係者の認識は、すべてN1運転を試験的に実施するというものであったことが認められる。)

7  なだしおは、排水トン数二二五〇トン、全長76.2メートル、最大幅9.9メートル、定員七五名の潜水艦であり、第一富士丸は、総トン数一五四トン、全長33.2メートル、最大幅6.1メートルの漁船を改造した遊漁船であり、最大搭載人員は四四人、内乗客三六名という規模であった。

二  次に、関係証拠を総合すると、以下の事実が認められる。

1  両艦船の衝突の状態、地点及び時刻

(一) 両艦船の衝突の状態

司法警察員海上保安官作成の検証調書二通(<書証番号略>)及び海上保安大学校教授池田英治作成の鑑定書(<書証番号略>)によれば、なだしおにおいては、衝突後、右舷の艦首から後方一〜三メートルの間のNO三〜七ロンジの間などに破口や凹損が、艦首付近の右舷側から左舷側に擦過、凹損などが生じていたこと、海底から引き上げられた第一富士丸においては、船首部船底から上方八五センチメートルのところから下方の船首材及び船首外板が左舷側から右舷側にたたみこまれたように破損し、船底から上方八五センチメートルから上方の船首材は六〇センチメートルにわたり左舷側に潰されたようになっていたこと、右舷船首部外板には、船首から後方2.2メートル、船底から1.2メートル上方に凹損や黒ペイントの付着などがあったこと、右舷ビリジキールから後方四五度に向かって、船底外板に擦過痕、黒ペイントの付着などがあったこと、以上の事実が認められ、両艦船の右損傷部位等に前記鑑定を併せ考えると、なだしおの艦首尾線から左側一五度〜二〇度から、同艦の右舷艦首付近と第一富士丸の船首が衝突したものと推定される。また、衝突直後に発令所へ行ったというなだしおの五十嵐電測員長の検面(<書証番号略>)及び司法警察員海上保安官作成の捜査報告書(<書証番号略>)によれば、五十嵐が食堂で衝突音を聞くや走って発令所へ行き海図台にある針路盤を見た時、その針が三一〇度〜三二五度の範囲を指していたというのであるが、これによれば、なだしおが、後記のとおり、真針路二七〇度で航行していたのであるから、同艦は、衝突したころ元の針路から四〇度〜五五度の範囲で右に回頭していたことになる。この事実に第一富士丸がなだしおに衝突したときの角度と、第一富士丸が、後記のとおり、真針路一四八度で航行していたことを重ねると、第一富士丸は、衝突直後に元の針路から一八度〜三八度の範囲で左に回頭していたことになる。もっとも、五十嵐電測員長が発令所の針路盤を見たのは、後記のとおり、衝突後、いくばくかの時間が経過していた時であったので、若干の速力が残っていたなだしおが、衝突後もなお回頭し続けていたとすれば、五十嵐は衝突後にも回頭が進んだ角度を見たことになるから、衝突時の回頭角度は四〇度〜五五度の範囲を少し下回っていたことになり、逆に、船足が少に残っていた排水トン数二二五〇トンのなだしおに対し、総トン数一五四トンの第一富士丸が、後に認定のとおり、約五ノットの速力でなだしおの左舷から前記角度で衝突したものであるから、衝突によってなだしおの回頭が止まり、或いは回頭が元へ戻されたとすれば、衝突時の回頭角度は、四〇度〜五五度の範囲であったか、或いは、これを少し上回っていたことになる。のみならず、被告人甲野は、検面(<書証番号略>)において、「第一富士丸が本艦艦首部に衝突して乗り上げていることに、本艦の後進の水流が艦橋の斜め横まで来ているのが目に入った。」旨述べているので、これによれば、衝突後少ししてなだしおの後進が始まったことが認められ、したがって、五十嵐電測員長が見た針路盤の表示はこのときのものとも考えられ、そこで、衝突時の両艦船の回頭角度は、前記の数値に更にある程度の幅を持ったものと考えざるをえない。

(二) 衝突地点

第一富士丸の乗客であった岡田敏男の公判供述並びに被告人甲野の検面(<書証番号略>)及び公判供述によれば、衝突した第一富士丸は、その船体の三分の一位をなだしおの艦首付近に乗り上げ、横倒しになりながら滑り落ち、左に傾いたままゆっくり左回頭しながら東に向かって約一〇〇メートル前進して船尾から沈没したこと、なだしおの甲板上で沈没を目撃した同艦の膳法電測員の検面(<書証番号略>)によれば、第一富士丸の沈没時刻は一五時四〇分であったことがそれぞれ認められる。また、司法警察員海上保安官作成の捜査報告書二通(<書証番号略>)によれば、第一富士丸の沈没地点は、横須賀港東北防波堤東灯台(以下「東灯台」という。)から真方位108.4度、約三二八〇メートルで、北緯35度18分23.5秒、東経139度42分45.7秒のところであったこと、そこで、右被告人甲野の述べるところにしたがって、沈没地点から西方(真方位281.25度)一〇〇メートルのなだしおと第一富士丸が衝突した地点と推定されるところは、東灯台から真方位108.6度、約三一八〇メートルのところであり、北緯35度18分24.1秒、東経139度42分41.8秒であることがそれぞれ認められる。

もっとも、衝突後、第一富士丸が進行した距離や方角は被告人甲野の目測であり、また、前記池田鑑定書によれば、第一富士丸は、水没地点から海底で着底するまで船尾方向に若干動いたことも否定し切れないから、これら不確定事情を考慮すると右衝突地点もある程度の幅を持ったものと考えるべきである。

なお、被告人乙川の弁護人らは、第一富士丸の衝突地点は、沈没地点付近である旨主張する。しかし、前記乗客の岡田が公判供述において、「第一富士丸は、衝突後、傾いたままで行き足があったから沈むとは思わなかった。比較的落ち着いていたから、靴も脱いだ。河原さんの奥さんを引き上げたりもした。また、タイヤをはずそうとしたり、クーラーボックスを投げたりした。」旨述べているほか、被告人甲野が傾いたまま進行していた第一富士丸を目撃していることに照らし、第一富士丸が衝突後暫く進行して沈没したことは明らかであるから、弁護人らの右主張は採用できない。

(三) 衝突時刻

川村航海科員の検面(<書証番号略>)及び公判供述、太田船務士の検面(<書証番号略>)、野村船務長の公判供述並びに押収してある航泊日誌(<押収番号略>)によれば、航泊日誌には、「一五時四〇分第一ふじ山丸と衝突」と記載されているが、この元の記載は「一五時三八分漁船と衝突」であったのに、衝突後暫くして士官室で被告人甲野を中心に衝突時刻などの確認が行われた際、同被告人が、古澤機関長や柿添電機員の主張を入れて衝突時刻を一五時四〇分とすることにきめたため、これに合わせて航泊日誌の記載も前記のように書き改められたこと、海図上の四一分の地点表示は、元三九分と記載されていたものを衝突時刻が改められたのに合わせ、後に四一分と書き改められたものであり、この四一分の地点表示は、衝突する前には二分置きに艦位が測定され、これが海図上に記載されているのとは異なり、野村船務長に指示された川村航海科員が、衝突後一分以内で一分に近いころ、測定された艦位を記載したものであったこと、以上の事実が認められるところ、前記のようなアナログ時計の長、短針の動き方や航泊日誌の記載方法によれば、衝突時刻を一五時三八分としていた航泊日誌の元の記載は、一五時三八分三〇秒より前の時刻を意味することになる。また、航泊日誌の右記載方法のほか、なだしおの僚船である潜水艦せとしおの艦長山内敏秀が「我々は、例えば三六分という時には三五分三〇秒から三六分三〇秒までの時刻を言う。」と述べ(検面〔<書証番号略>〕)ていることなどによれば、なだしおなどの潜水艦においては、時刻を認識する仕方が正分の前後三〇秒をもって該正分としていることが認められるから、海図上に元三九分と記載されていた時刻は、三九分三〇秒より前の時刻であったことになる。そこで、川村航海科員が言うように、これから一分以内で一分に近い時間を遡った時刻(衝突時刻)は三八分三〇秒前ころになる。また、川村航海科員は、衝突のショックを感じて時計を見たところ、「一五時三八分台で秒針が二五秒ないし四〇秒の範囲にあった」と述べているが、この供述から、衝突時刻を示す秒針が三八分三〇秒から四〇秒の範囲にあったとすると、航泊日誌の記載方法に照らし、同人が述べるとおり、本来航泊日誌には三九分と記載すべきところを、誤って三八分と記載したことになる。しかし、そればかりか、それから一分近く経過した海図上元三九分と記載されていた艦位の測定時刻も三九分三〇秒から四〇秒であった可能性が高くなり、そうであれば、海図上四〇分と記載すべきところを再び誤って三九分と記載したことになる。川村航海科員は、海図上の三九分の記載までも誤ったとは述べていないうえ、当時、二分置きに艦位を測定し、しばしば時計を見ていたのであるから、時刻の点では比較的信用をおけると考えられる同人が、二度にわたって時刻の記載を誤ったものとは考え難い。以上のような航泊日誌の元の記載の意味や海図上の元の記載との関係などを併せ考えると、航泊日誌の元の記載は、正確であったものと認められるが、これに川村航海科員の前記供述を併せ考えると、秒針の位置(衝突時刻)は、後の同人の記憶や供述を混乱させるようなところ、すなわち一五時三八分三〇秒前ころであったと認められる。なお、事故当時、非番で食堂で待機していたという五十嵐電測員長は、「衝突警報や軽くトンという音が聞こえたころ、かんぱつを入れず発令所へ向かったが、途中、溺者救助用意の発令を聞いた。海図台の横の自画航跡装置のスイッチを入れて光りのスポットの動きを確認し、ログ速計を見た後、デジタル時計を見ると三八分五〇秒台を表示していた。食堂を出てから時計を見るまでの経過時間は約一五秒であった。」旨述べ(同人の検面〔<書証番号略>〕及び公判供述)、後の実験でも右経過時間が約一五秒であったことが認められる(司法警察員海上保安官作成の捜査報告書〔<書証番号略>〕)から、これによれば、衝突時刻は、三八分四〇秒前後ころとなる。しかし、明確な意図の元に行われた実験の結果は、実際の経過時間に近似しているとはいえ、若干の誤差を否定できないうえ、右実験結果によると、食堂から発令所までの経過時間が約八秒であったから、五十嵐電測員長は、衝突音を聞いてから約八秒以内に溺者救助の下令を聞いたことになる。しかし、被告人甲野は、「衝突後、第一富士丸は船体の三分の一位を本艦の上に乗り上げ、それから横倒しになりながら本艦から落ちかかったが、そのころ太田副長から後進のままであることを知らされ、はっと我に返って停止を下令した。また、第一富士丸が横倒しになったのを認めて溺者救助部署を発動した」と述べ(同人の検面〔<書証番号略>〕及び公判供述)、則信船務士は、「士官室で休憩中、衝突音を聞いてベッドから飛び起き、靴を履こうとしていたとき衝突警報を聞き、すぐ発令所へ走っていたとき溺者救助用意の艦内放送を聞いた」と述べ(同人の検面〔<書証番号略>〕)ているので、これら各供述を検討すると、衝突音から溺者救助の下令までの経過時間は八秒程度の短時間ではなかったものと考えられる。したがって五十嵐電測員長の前記供述は、若干不正確であり、前記衝突時間の推定を左右するものではないと言わなければならない。むしろ、右供述に若干の幅があることを考えると、三八分三〇秒前ころという衝突時刻を裏付けるものと言ってもよい。

2  一回目の停止下令の時期及び地点

(一) 下令の時期

被告人甲野は、自艦進路と交差する角度で北上してきたヨット「イプワン」を避航するため「停止」を下令した。当時、発令所で潜望鏡を使用して二分置きに三点交叉方位法による艦位の測定をしていた太田和幸船務士は、「三六分の艦位測定時、一本目の方位をとり終えてから三本目の方位をとり終えるまでの間に停止の命令を聞いた」と述べ、海図台の前にいた川村薫航海科員も、「三六分の艦位測定中、又はその直前直後に停止の号令を聞いた」と述べている。三点交叉方位法というのは、陸上の著名物標三点となだしおとの方位線を潜望鏡で測定し、それぞれの方位線が海図上で交わる所をなだしおの位置、即ち艦位とするものであるが、その作業は、通常正時の一〇秒前位に海図台の川村から潜望鏡を担当していた太田に「ベアリング願います」等と要求して同人が物標を決めて測定を始め、正時に一本目の測定をし開始から一〇秒ないし二〇秒で三本の測定を終え、川村は一五秒ないし二〇秒を要して三本の方位線を海図上に記載する(太田和幸〔<書証番号略>〕及び川村薫〔<書証番号略>〕の各検面)ものである。

そこで、右測定作業の手順や川村の右供述に照らすと、当時二分置きに艦位を測定していた太田の右供述は、同人が右供述書面で「三本目の方位をとり終える間に停止の号令がかかったことは艦位測定中に停止がかかったということで印象に残っており間違いない」と述べるところと相俟って信用できるから、これに右測定作業の手順、所要時間を併せ考えると、一回目の停止の下令があった時期は、凡そ一五時三六分〇秒から三六分一〇秒ころの間と認めるのが相当である。

(二) 衝突地点までの距離及び偏位

ここで、三六分ころから衝突時までに、なだしおが進出及び元の針路から偏位した各距離を求めると、右事実に併せ、押収してある海図(<押収番号略>)及び検察官作成の電話聴取書(<書証番号略>)によれば、川村航海科員が海図に記載した三六分の位置は、北緯三五度一八分二三秒、東経一三九度四三分〇六秒であることが認められ、前記推定衝突地点との経度差は、約24.2秒になる。北緯三五度付近の経度一秒の距離が約25.36メートルであることは公知の事実である(国立天文台編理科年表平成四年度版地学二ぺージ参照)から、なだしおが海図上の三六分の地点から推定衝突地点まで前進方向へ進出した距離は約六一四メートルである。また、右電話聴取書によれば、海図上の三二分の地点は、北緯三五度一八分二二秒、三四分の地点は、北緯三五度一八分二三秒、そして三六分の地点は前記のとおりであるから、なだしおは、ほぼ北緯三五度一八分二三秒の線上を航行していたものと認められ、推定衝突地点との緯度差は、約1.1秒となる。北緯三五度付近の緯度一秒の距離は、約30.82メートルであるから、なだしおが右に偏位した距離は約三四メートルである。

3  前進強速の下令及びN1運転について

(一) 前進強速の下令

一回目の停止の下令から前進強速の下令があったときまでの経過時間につき、当時艦橋にいた荒井水雷長は「約一分」、被告人甲野は「約五〇秒」、発令所にいた武藤操舵員は「一分弱の感じ」、川村航海科員は「一分近い」、運転室にいた柿添電機員は「五五秒」と述べ、その他、発令所にいた下山油圧手及び太田船務士、運転室にいた小﨑電機長らもほぼ同様の供述をしている(各人の前記検面)。これら各供述は、いずれも各人の感覚によるものであって、必ずしも正確とはいえないが、事故後ほどなく述べられ、内容が概ね一致しているから、一応、信用できるものであり、これを総合すると、右各人の感じた停止から前進強速までの経過時間は、凡そ五〇秒ないし一分であったことが認められる。

そこで、前記のとおり、一回目の停止が三六分〇秒から一〇秒までの間であるから、これを基準仁考えると、その五〇秒〜一分後に下令された前進強速は、三六分五〇秒から三七分一〇秒までの間であったと考えられるが、一方、後記のとおり、前進強速の後に下令された短一声以下二回目の停止までの一連の下令が凡そ三七分三〇秒過ぎころから五〇秒までの間に十数秒に渡って下令され、前進強速から右一連の下令までの経過時間が三〇秒ないし四〇秒であったのであるから、後の短一声以下二回目の停止までの下令を基準にすると、前進強速は三七分過ぎころに下令されたと考えられ、以上の点を併せ検討すると、前進強速が下令された時期は、凡そ一五時三七分前後ころと認めるのが相当である。

なお、被告人甲野や同被告人の弁護人らは、前進強速を下令する直前ころ、同被告人は、なだしおがそのまま直進しても第一富士丸との間に約五〇〇ヤードの距離を置いて同船の前方を通過できると思った旨主張する。しかし、後記(別紙五)のとおり、三七分ころ、なだしお及び第一富士丸から会合点(K点)までの各距離は、それぞれ約三三〇メートル、約三八〇メートルに過ぎなかったから、被告人甲野の目測は誤っていたと言わざるをえない。

(二) N1運転について

被告人乙川の弁護人らは、被告人甲野が前進強速を下令して第一富士丸の前方を航過しようとしたのは、N1運転を決行しようとしたからである旨主張する。そして、なだしおにおいては、当日午前中に生じた絶縁低下について、横須賀港へ入港前にN1運転を行って絶縁低下箇所を確認する予定があり、事故当時には運転室に古澤機関長や小﨑電機長らが集まりN1運転実施の下令を待っていたことは、前認定のとおりである。しかし、被告人甲野の検面(<書証番号略>)によれば、絶縁低下とは漏電のことであり、電圧が最大になるN1運転時には、最悪の場合、火災や感電事故が考えられるというのであり、また、同被告人の検面(<書証番号略>)及び公判供述によれば、三七分ころ、同被告人の目には第一富士丸の方位が僅かに落ちていたものの、距離が約一〇〇〇メートルに見えたというのであるから、そのころ予定していたものとはいえ、同被告人が比較的接近した距離で同船の前を航過しようとしていたときに、火災などの危険があり、その結果、場合によっては混乱を生じて同船と衝突する恐れも予測されるようなN1運転を、敢えて決行する積もりであったものとは考え難いから、弁護人らの右主張は採用できない。

4  面舵一杯下令の時期と再送、特別操舵について

(一) 面舵一杯の下令と再送、特別操舵

被告人甲野及びその弁護人らは、同被告人が面舵一杯を下令した時期は二度あった旨述べ、当時、なだしおの艦橋にいた太田副長や荒井孝司見張員も公判供述において、被告人甲野の右主張に沿う供述をしている。すなわち、被告人甲野は、検面(<書証番号略>)及び公判供述において、「ヨットをやり過ごして前進強速を下令した後、第一富士丸の方位に変化がなくなったのに気付き、右転を決意して短一声、面舵一杯、停止を下令した。その後操舵員から再送があったが、これに対する対応は記憶がないが、停止が伝えられたと思う。次に後進原速、後進一杯を下令したが、後進一杯の下令直前ころ、なだしおが一〇度位回頭するのを感じた。ところが、後進一杯の下令直後、舵角指示器を見ると舵中央であった。びっくりして荒井水雷長の肩を叩きながら面舵一杯を再度下令した。荒井水雷長が後進一杯を二度繰り返していたのはその後である。」旨述べ、太田副長は、公判供述において、「面舵一杯、停止のころに再送があったが、その時期は記憶がない。面舵一杯の後、舵角指示器の針が五度位まで動いているのを見た。後進一杯の下令後、被告人甲野が荒井水雷長の肩に手をかけるようにして、面舵だぞというのを聞いた。舵角指示器を見ると、舵角がゼロであった。再度の面舵一杯は後進一杯から一呼吸入れてからあった。」旨述べ、荒井孝司見張員は、公判供述において、「停止の号令は二回あった。次に面舵一杯、後進原速、後進一杯があった。停止と面舵一杯の順序は逆であったかも知れない。再送があったことは知らない。一連の号令の後、被告人甲野が荒井水雷長の肩を押すようにして、面舵だぞと言った。しかし、私が舵角指示器を見た時、多分、舵角は三五度を示していた。また、再度面舵だぞと言っているのを聞いたのは、後進一杯が二度繰り返された後であった。」旨述べている。要するに、これらの各供述は、右転し速力を落とすため面舵一杯、停止を下令し、なだしおが右回頭をし始めたのに、さらに後進原速、後進一杯を逐次下令した後、舵角指示器が舵中央となっていたので、再度面舵一杯を下令したというもの、或いはこれに符合するものである。しかし、右各供述は、その供述自体極めて不合理で、不自然なものである。

一方、面舵一杯の号令は、操舵号令であって機関に関する号令ではないから、これに接する機会があった艦橋及び発令所にいた者の認識を検討すべきところ、艦橋にいた荒井水雷長、発令所にいた武藤操舵員、小西油圧手、下山油圧手、野村船務長、川村航海科員らの公判供述やその検面(<書証番号略>)によれば、これらの者は、いずれも再度の面舵一杯の号令を聞いていないと言うのである。そして、小西油圧手が検面(<書証番号略>)において、野村船務長が公判供述において、それぞれ述べているとおり、当時、発令所にいた者は、後進一杯という稀な号令を聞き、何事かと緊張していたはずであるから、その後に面舵一杯の号令があれば、これを聞き逃すはずはないと考えられる。また、武藤操舵員は、検面(<書証番号略>)や公判供述において、「再送の後に来た面舵一杯の号令にしたがって面舵一杯をとった」旨述べ、同人の背後で同人の動作を見ていた小西油圧手や下山油圧手も、検面(<書証番号略>)や公判供述において、「面舵一杯の後、舵角指示器が二五度付近にあるのを見た。」とか「面舵一杯、停止が来たころ、武藤操舵員の操作を確認したが、同人は、右手で操舵ハンドルを右に回し、左手でテレグラフを停止した。」旨述べており、これら各供述の信用性に疑問を挟む余地はない。以上併せ考えると、後進一杯の下令後舵角指示器が舵中央となっていたので、再度、面舵一杯を下令した旨の被告人甲野の供述や太田副長及び荒井孝司見張員らの前記供述は措信しがたいものというほかなく、後進一杯の下令後、再度面舵一杯が下令されたという事実はなく、武藤操舵員は、短一声の下令後、続いて面舵一杯、停止の号令が下令されるや、直ちにその操作をしたものと認められる。

因みに、被告人甲野や弁護人らは、短一声、面舵一杯が下令されたとき、武藤操舵員は、面舵部分が聞き取れなかったため、再送要求をしたが、その間、同人は、短一声を聞き、一時、舵を面舵にとり、すぐこれを中央に戻した(以下これを「特別操舵」という。)可能性がある旨主張する。後記のとおり、たしかに、武藤操舵員が面舵部分を聞き取れず、再送要求をした事実はある。しかし、これに対して下令された面舵一杯により、同操舵員が直ちにその操作をしたことは、前認定のとおりであるほか、武藤操舵員の検面(<書証番号略>)によれば、同人は、「操舵についているときは、コンパスと舵角に注意を払わなければならないので、汽笛についてはそれほど注意していない。」と述べ、また、再送要求をした時の前に鳴った汽笛については「何回鳴ったか分からなかった。発令所にいた誰かが、短一声の汽笛だと言っていたことから、その話を聞いて汽笛の意味が分かった。」旨述べているのであるから、同人に汽笛に対する認識は、極めて曖昧なものであったと言わざるをえない。前が見えず、操舵は専ら操舵号令によってのみ行うため、号令の伝達ミスを可能な限りなくそうとして、号令に対する復唱や報告などが決められている潜水艦において、武藤操舵員が、右程度の認識で一部聞き取れなかった号令の意味を感じ取り、直ちに面舵一杯の操作をしたものとは到底考えられない。したがって、被告人甲野やその弁護人らが主張する特別操舵は、これを認めることができない。

(二) 面舵一杯下令の時期

(1) 前認定のとおり、なだしおが、三六分過ぎころの一回目の停止から衝突まで経過した時間が、約二分二〇秒〜三〇秒であること、その間の前進方向への進出距離が約六一四メートルであること、元の針路からの回頭した角度及び偏位した距離が、四〇度〜五五度及び約三四メートルであること、面舵一杯は二回目の停止の前に下令されたこと、特別操舵というものはなかったこと、以上の事実が認められるところ、右距離や回頭角度の点について、ある程度の幅があることを考慮すれば、被告人甲野や荒井水雷長らの述べる号令の順序や時間間隔によって、なだしおの進出距離、回頭角度などを計測した東京商船大学名誉教授岩井聰作成の鑑定書(以下「岩井鑑定」という。)中の「NZ1」や「NK」の数値が事故時の状況に近似したものと考えられる。そして、その平均値の内容は、別紙三のとおりであり、これによれば、回頭角度四〇度〜五五度、偏位距離約三四メートルの状態(衝突時の状態)になるのは、面舵一杯を下令後三〇秒〜四〇秒経過した時であることが認められる。そこで、これに前記のとおり、衝突時刻が三八分三〇秒前ころであることを併せ考えると、右鑑定から推測される面舵一杯の下令された時期は、三七分五〇秒〜三八分〇秒ころになる。

(2) 次に、太田船務士及び川村航海科員の各検面(<書証番号略>)並びに押収してある海図(<押収番号略>)によれば、なだしおが浦賀水道北航路から左転して横須賀基地へ向かう際は、浅瀬等が多く、座礁などを避けるため、川村航海科員らは二分置きに艦位を測定し、当時も一五時三二分、三四分、三六分の各正時に艦位を測定したが、三八分の艦位は測定しなかったこと、その理由は、なだしおが変針中には正確な艦位が測定できないからというものであるところ、右事実によれば、そのときも三八分正時の艦位測定作業にとりかかる前、すなわち、三七分五〇秒ころ以前に変針の下令があったものと推測される。

(3) 被告人甲野の検面〔<書証番号略>〕及び公判供述、荒井水雷長の公判供述並びに太田船務士の検面(<書証番号略>)によれば、なだしおは、後進一杯の下令の前ころ一〇度近く右回頭していたことが認められるが、岩井鑑定(別紙三)によると、なだしおは、8.3〜9ノットの速度で面舵一杯、停止を下令すると一五秒〜二〇秒で約一〇度右に回頭することが認められるから、当時なだしおが面舵一杯を下令したのは、後進一杯の下令から一五秒〜二〇秒前であったことが推測されるところ、後記のとおり、後進一杯の下令があった時刻が三八分過ぎころであるから、面舵一杯は三七分四〇秒過ぎ〜四五秒前に下令されたものと推測される。

(4) 以上(1)〜(3)の検討を併せ考えると、面舵一杯は、三七分五〇秒前ころに下令されたものと認められる。

(5) ところで、当時、艦橋や発令所にいた被告人甲野ら関係者の供述によれば、同被告人が短一声、面舵一杯、停止の下令をした際、武藤操舵員は、面舵一杯の面舵部分を聞き取れず、「再送」と言って再度の下令を求めたことが認められるが、荒井水雷長や武藤操舵員の検面(<書証番号略>)及び川村航海科員の検面(<書証番号略>)によれば、その順序は、短一声、面舵一杯、再送、面舵一杯、停止(以下これを「二回目の停止」という。)であったことが認められる。被告人甲野は、前記のとおり、これと異なり再送に対し、停止が伝達された旨述べ、他にも右認定と異なる供述をする者がいるが、伝達の授受当事者である荒井水雷長や武藤操舵員らが、事故後さ程の期間を置かずに述べた供述の信用性を否定することはできない。そして、前進強速の下令から短一声、面舵一杯、再送、二回目の停止、後進原速、後進一杯などの一連の下令がなされた経過時間につき、当時、艦橋、発令所及び運転室にいた関係者のうち、荒井水雷長は「前進強速から間もなく(五秒位しての意味)、漁船の方位知らせと言われ、ジャイロで見たところ方位に変化がなかった。不思議に思いもう一度ジャイロのピンを合わせて見ていたところ、短一声、面舵一杯がかかった。方位変化を見ていたのは二〇秒位である。停止から後進一杯までの三〇秒足らずであった。」と、被告人甲野は「前進強速から二〇秒位して短一声、それから面舵一杯、停止まで五、六秒、停止から一五秒位して後進原速、続いて後進一杯、停止から後進一杯までは約二〇秒。」と、武藤操舵員は「前進強速から汽笛までは一分弱より少し短い、汽笛の直後に○○一杯があり、○○についてすぐ再送をし、面舵一杯が来た。その操作をして面舵一杯を復唱したが、操作をし始めてから一〇秒前後以内に停止が来た。停止から少し間があって後進原速、数秒して後進一杯が来た。」と、太田船務士は「前進強速から停止までは三〇秒〜四〇秒位、停止から後進原速までは二〇秒〜三〇秒位、後進原速から後進一杯までは五秒位。」と、川村航海科員は「前進強速から停止までは一分近くたっていた。前進強速の後に次々に面舵一杯などの命令が来た。その順序は覚えていないが、停止の後に後進原速、後進一杯が来た。その間隔は、一応の区切りがあった。」と、柿添電機員は「前進強速から停止までは約三五秒、停止から後進原速までは約二五秒、後進原速から後進一杯までは一二秒〜一三秒」とそれぞれ述べているほか、短一声以下二回目の停止までの間隔につき、荒井水雷長は「短一声と面舵一杯は続けてあった。武藤から再送要求があったため面舵一杯を再送し、次に停止を下令した。武藤操舵員からは面舵一杯、停止の復唱や面舵三五度の報告が届いた。面舵一杯と停止の間は、再送があって再び面舵一杯を下令する位の間隔があった。」と述べている。(<書証番号略>、荒井水雷長の公判供述、<書証番号略>)。他に、右各供述と若干異なる供述をする者もいるが、右各供述は前同様に、一応、信用できるから、これら各供述から認められる各号令の個数、経過時間、各号令間に若干の間隔があったことなどを併せ考えると、関係者が感じた時間の経過は、短一声、面舵一杯、再送、面舵一杯、停止が、一応の区切りでありながら十数秒の間に纏まりがあったことが認められる。(また、停止から少し置いて後進原速、後進一杯が若干の間隔を置いて下令され、前進強速から二回目の停止までの経過時間が凡そ三〇秒〜四〇秒であったことも認められる。)そこで、右認定のように短一声以下二回目の停止まで四個の号令と再送が十数秒の間に次々に下令され、各号令間に若干の間隔があり、一応の間隔があったものの、各号令は極めて接着していたものと考えられるから、前記面舵一杯が下令された時期に短一声以下二回目の停止までの一連の下令の経過時間を重ねて推測すると、結局、短一声以下二回目の停止までの一連の下令は、凡そ三七分三〇秒過ぎ〜五〇秒にかけて下令されたものと認めるのが相当である。

5  後進原速、後進一杯下令の時期

なだしおにおいて、後進原速、後進一杯の下令から衝突までの経過時間を、この点について述べている関係者の供述で検討するに、艦橋にいて衝突状況を目撃した太田副長の公判供述によれば、「後進一杯は一分以上あった」と、被告人甲野の検面(<書証番号略>)及び公判供述によれば、「後進一杯から四、五秒後、再度面舵一杯を下令し、しばらくして、なだしおが第一富士丸の船橋を向いたころ五、六秒ないし一〇秒目を離したところ、第一富士丸がなだしおに向かって来ていた。そのときから二〇秒位して衝突警報を発し、それから約一〇秒して衝突した」とそれぞれ述べ、その他、発令所にいた武藤操舵員(<書証番号略>)、野村船務長(公判供述)及び小西油圧手(<書証番号略>)、運転室にいた古澤機関長(公判供述)及び柿添電機員(<書証番号略>、公判供述)らは、いずれも一分前後とか「長く続いた」と述べている。一方、運転室にいた海老坪電機員は、事故後ほどなく作成された検面〔<書証番号略>〕において「後進原速から一五秒前後に後進一杯が来て、それから一五秒位後に衝突の振動があった」と、小﨑電機長もおなじころに作成された検面〔<書証番号略>〕において「後進原速からあまり間隔を置かず後進一杯が来た。それから二〇秒〜二五秒で作業や指示をし、間を置かず溺者救助の号令と接触したような衝撃があった」旨それぞれ述べているので、これら海老坪や小﨑の各供述によると、後進原速から衝突までの経過時間は凡そ三〇秒前後であったことになる。発令所にいた川村航海科員〔<書証番号略>〕や下山油圧手〔<書証番号略>〕も前同様の検面において、要旨、後進一杯から衝突までそれほど長い時間でなかったような供述をし、右海老坪らの供述と符合している。

ところで、右各証拠によれば、被告人甲野や太田副長は当時艦橋にいて衝突事故を目の当たりにしていた者であり、野村船務長は後進原速の下令後から衝突の直前まで潜望鏡で第一富士丸を見ていた者であるから、衝突事故そのものや、衝突の直前までの状況を見ていた彼等が時聞を長く感じたのは緊張感によるものと考えられるので、その供述は必ずしも正確とは言えないのに対し、運転室にいた海老坪電機員や小﨑電機長は、後進一杯がかかり緊張していたものの、衝突まで意識した様子が窺えないから、比較的冷静な状態で感じたことを述べたものと考えられ、また、発令所にいた川村航海科員は艦位測定のためしばしば時計を見ていたことが認められるから、時間について述べるところは比較的信用できると考えられる。もっとも、運転室にいた古澤機関長や柿添電機員は、前記のとおり、後進一杯から衝突までの時間を一分前後ないしそれ以上と述べているが、元々、古澤機関長らは、衝突事故の暫く後、士官室で被告人甲野らと衝突時刻の確認をした際、衝突時刻を一五時四〇分と主張していたが、速力通信受信簿に「一五時三八分停止、後進原速、後進一杯」の記載があるため、後進一杯から後の時間を長く述べている節も窺われるので、この点に関する古澤機関長や柿添電機員の前記供述は信用できない。更に、被告人甲野は、後進一杯の下令後、再度の面舵一杯を下令しその前後に二〇数秒の時間の経過があった旨供述しているが、前記のとおり、同被告人の主張するような二回目の面舵一杯の措置は、これを認めることができないから、同被告人の述べる後進一杯の下令以後の経過時間は、この点においても直ちに採用することはできない。なお、川村航海科員、海老坪電機員及び小﨑電機長らは、後の公判供述において後進一杯から衝突までの時間は一分であったとか、長く感じた旨述べているが、事故後長期間を経て述べられたこれら供述は直ちに信用することはできない。

以上によれば、後進原速、後進一杯は、衝突から約三〇秒前後前に下令されたものと認められるところ、前記のとおり、衝突時刻が一五時三八分三〇秒前ころであること及び後進原速と後進一杯との間隔が若干あったことを併せ考えると、後進原速、後進一杯の下令された時期は凡そ一五時三八分〇秒の前後にわたる数秒間と認めるのが相当である。

6  なだしおの衝突に至るまでの航行、変針、変速のまとめ

以上一及び二の1〜5の事実に併せ、荒井水雷長、太田副長、武藤操舵員、小西油圧手、下山油圧手、川村航海科員、五十嵐電測員長、柿添電機員、小﨑電機長及び被告人甲野の各検面(<書証番号略>)並びに各公判供述、古澤機関長の公判供述、足立利男の検面(<書証番号略>)及び公判供述ほか前掲の各証拠を総合すると、なだしおが衝突に至るまでの航行、変針、変速は次のようなものであったことが認められる。すなわち

なだしおは、浦賀水道航路を北上し、同航路中央五番灯浮標付近を通過後、一五時三一分ころから三三分ころにかけて左転して、真針路二七〇度に変針し、横須賀港に向かって同航路を横断し始め、時速約10.8ノット(前進強速)で航行し、同三四分から三五分にかけて同航路の横断を終えた。被告人甲野は、川村航海科員から同航路を出た旨の報告を受けたころ、右斜め約三〇度、目測距離約二〇〇〇メートル(計測約一七〇〇メートル)のところに、目測速力約一〇ノット、自艦進路と交差する角度で同航路に沿って南下中の第一富士丸を認め、荒井水雷長に「漁船の方位知らせ」と指示したところ、同人は、ジャイロコンパスレピーターで二〇秒間程測定し、方位の変化が少数点以下であったため、「漁船の方位わずかに落ちます」と報告した。また、そのころ、被告人甲野は、太田副長から「左六〇度にヨット近づく、距離約六〇〇メートル」との報告を受け、北上中のヨット「イブワン」を認めた。

荒井水雷長は、被告人甲野に対する報告を終えたころ、目測で左四五度距離約三〇〇メートルにヨットを認め、ジャイロコンパスレピーターでその方位変化を測定したうえ、被告人甲野に対し、「右の漁船方位わずかに落ちます。左のヨット方位昇ります。右の漁船の方に向けます。」と言って右転の承諾を求めた。荒井水雷長は、そのときヨットの方位が昇っているように見えたが、距離が接近していたため衝突の恐れがないとはいえず、これを避け、かつ、右方から来る第一富士丸も避けるつもりで右転を考えた。このとき、被告人甲野は、ヨットに対する避航措置のみを考え、「俺がとる。」と言って自ら直接操艦の指揮をとることにし、続いて、同三六分過ぎ(三六分〇秒〜一〇秒)ころ、一回目の「停止」を下令した。そのころ、同被告人の目測では第一富士丸は、右三〇度〜四〇度で同被告人の目には、距離が約一〇〇〇メートルに見えた。

停止の下令の直後ころ、太田副長は、衝突を避ける措置として被告人甲野の了解を得たうえ注意喚起信号(超長一声)を約八秒間鳴らした。ヨット「イブワン」は、真方位凡そ三二五度〜三三〇度の方向に約四ノット強の速力で航行していたところ、船長の足立は、その汽笛に気付き、西進中の潜水艦を発見し、その時の状況判断で、ヨットが潜水艦の艦首を先に通過できると思ったが、あえてそれをせず、かえってこれを避けようとして、一時的に左に舵を取り潜水艦に平行する針路をとった。なだしおがヨットの横を航過し終わったころ、両船間の距離は、約一〇〇メートルであった。被告人甲野は、イブワンが変針したのを確認し、第一富士丸の前方を通過できると考えて、同三七分前後ころ、前進強速を下令した。そのころ、同被告人の見た第一富士丸の位置や距離は、三六分ころに見たときと変わっていないように思った。続いて、同被告人は、荒井水雷長に対し、「漁船の方位変化を知らせ」と命じた一方、自らもトランジット法により第一富士丸の方位変化に注意していたところ、第一富士丸は、依然として右三〇度〜四〇度の方向にあって、距離のみ六〇〇〜七〇〇メートルに見えたものの、その方位変化が認められなかったため、荒井水雷長からの報告を待たず、なだしおを右転させ第一富士丸を回避しようとして、同三七分三〇秒を少し過ぎたころ、短一声、面舵一杯を指示し、荒井水雷長は短一声を吹鳴させるとともに面舵一杯を伝達した。しかし、そのころ、7MCを使用して運転室から艦橋へN1運転の準備ができた旨を伝える「運転室配置よし云々」の声が艦橋の21MCに混入した(ハウリング)ため、21MCを使用した荒井水雷長から武藤操舵員への右指示が充分伝達されず、武藤は面舵一杯の面舵部分が聞き取れなかった。そこで、同人は艦橋に対し、「再送」と言って再度の指示を求め、再び荒井水雷長から面舵一杯が伝達されたため、武藤は面舵一杯を復唱し、同三七分五〇秒前ころまでに、その操作をした。続いて、被告人甲野は、二回目の停止を下令し、更に、なだしおの行き足を止めた方がよいと考え、同三八分過ぎころまでに後進原速、後進一杯を下令した。

その後、なだしおが右へ回頭してその艦首尾線が第一富士丸の船橋に向いたころ、第一富士丸が左転しながらなだしおの方へ進んできたため、荒井水雷長は思わず発令所に向けて後進一杯を二回続けて叫び、そのころ被告人甲野も荒井水雷長に命じて衝突警報を吹鳴させ、その直後ころの同三八分三〇秒前ころ、両艦船は衝突した。

衝突時、なだしおの艦首は凡そ真方位三一〇度〜三二五度の方向を向き、第一富士丸はなだしおの艦首尾線の左側一五度〜二〇度の方向から衝突した。また、衝突地点は、横須賀港東北防波堤東灯台から凡そ108.6度、距離約三一八〇メートル付近の海上であった。

7  第一富士丸の動きについて

(一) 針路と速力など

司法警察員海上保安官作成の検証調書(<書証番号略>)及び写真撮影報告書(<書証番号略>)によれば、本件事故の六日後である昭和六三年七月二九日に引き上げられた第一富士丸の検証及び写真撮影の結果は、次のとおりであった。

すなわち、操舵室の操舵スタンドに自動操舵と手動操舵の各機能が組み込まれているが、その切替えレバーが手動の位置にあり、命令舵角指示器が三五度を、操舵スタンドから左舷寄りの天井にある舵角指示器が取舵三四度を、操舵スタンドの上部のジャイロコンパスの自動操舵針路設定指示針が一四五度を、操舵スタンドの右側にある機関遠隔操縦装置の操舵盤にある翼角計が17.5度を、変節ダイアルが二七をそれぞれ示していた。また、変節操作切替レバーは変節ダイアル側になっており、翼角の変更が変節ダイアルにより行える状態であった。左舷側の天井から吊り下げられた音響信号装置の電源は「入」の状態で、同装置の押ボタンを押せば進路信号などを発する状態であった。機関室の主機関に付属したガバナハンドルは「遠隔」の位置で、その指示針が「一六」を、燃料加減ハンドルの指示針が「七七」を示していた。また、船尾の舵板が、舵中央の状態で見ると横方向中央部において、若干右舷側に湾曲(これを船尾後方から見ると、右舷側に「>」形で湾曲している。)していた。次に、検証に立会した被告人乙川の説明によれば、自動操舵から手動操舵に換えた場合、自動操舵航行中の設定針路の指示針はそのままになるとのことであり、また、同被告人の説明による自動操舵を手動へ切り換える動作、左手で操舵輪を握り、右手でガバナのレバーに触れて機関回転数を下げる動作、音響信号装置の下へ移動して同装置の押ボタンに触れ、再び操舵スタンドの前へ移動し、右手で変節ダイアルに触れる動作などは、これを連続して行っても短時間でできた、以上の事実が認められる。

ところで、被告人乙川の公判供述な並びに元第一富士丸の船長であった豊田直樹の公判供述によれば、同被告人は、浦賀水道航路第五号灯浮標付近で同航路に沿うよう自動操舵の設定針路を一四五度にしたが、それは、第一富士丸が右に三度位回頭する癖があったからであること、したがって、設定針路を一四五度にすることによって、第一富士丸の当時の針路が概ね一四八度であったことが認められる。

もっとも、被告人甲野の弁護人らは、自動操舵の場合の不感帯を考慮すると、第一富士丸は、一四二度から一五〇度の範囲を蛇行していた旨主張する。しかし、第一富士丸が若干右に曲がる癖を有していたのは、前記の舵板の湾曲など船体の構造に由来するものと考えられるから、進行中は常に右に回頭しようとする力が働き、針路が一四八度になったとき元に戻ろうとする力によって右回頭が止められ、結果的に針路が概ね一四八度になるものと考えられるから、このような蛇行の仕方であれば、不感帯があったとしても、それは主に一四八度を超えた範囲で生じるものと考えられ、したがって、第一富士丸の針路は、一四八度に若干の幅を持った範囲で少し蛇行していたが、概ね一四八度の針路を保持していたものと認められる。そして、豊田前船長や被告人乙川の前記供述によれば、右程度の蛇行は、他の船にも通常あるものであり、第一富士丸に特徴的なものではないことが認められる。

次に、司法警察員海上保安官作成の捜査報告書(<書証番号略>)及び第一富士丸の機関を製造した株式会社新潟鉄工所の取締役工場長作成にかかる捜査関係事項照会回答(<書証番号略>)によれば、燃料ハンドル目盛七七、ガバナハンドル目盛一六の状態は機関回転数二二五回転前後で運転中であったこと、その回転数のときの速力は6.4ノット前後であることがそれぞれ推定されるので、第一富士丸が沈没するころ、同船の速力が6.4ノット前後であったことが推測される。

因みに、後記のとおり、第一富士丸が半速に減速した時期があったが、第一富士丸の元機関長であった武田良造の検面(<書証番号略>)によれば、第一富士丸では、速力を半速するとき主機関の回転数が二六〇回転前後であったというのであるが、司法警察員海上保安官作成の捜査報告書(<書証番号略>)によれば、右回転数のときの速力は約7.3ノット前後であるから、第一富士丸が半速に減速した時の速力は、約7.3ノットであったと認められる。この点につき、被告人甲野は、第一富士丸の半速時の速力を約8.2ノットである旨主張し、同船のプロペラを製造した「かもめプロペラ株式会社」からの弁護士法二三条の二第一項に基づく照会回答書(<書証番号略>)によれば、可変ピッチプロペラの翼角が前進一七の時、機関の毎分回転数は二六〇回転、速力は約8.5ノットという回答がなされており、被告人甲野の右主張を裏付けている。しかし、同被告人の右主張は、類似船の数値から推測したものであるが、その推測の根拠が明確とは言えないうえ、同被告人の挙げる数値や「かもめプロペラ」からの回答による数値は、いずれも、製造時からの経過年数及び機関や船体の保存状態など各船の個別要因によって異なることが明らかであるから、これに基づく推測には正確性に疑問の余地があると言わなければならない。したがって、これらが、前記認定を左右するものではない。

(二) 第一富士丸が半速に減速した時期など

被告人乙川は、公判供述において「左前方で、北上していたヨットの前をなだしおが通り過ぎ、ヨットが反転して南に針路を変えたように見えたため、なだしおが第一富士丸の前を突き進んで行くものと思ったが、その後、昇って行くはずのなだしおの方位に変化がなかったので、同艦に接近したくないと思って速力を半速にした。」と供述する一方、「捜査段階においては、半速にした理由は同艦を先行させるためと述べている。」旨供述している。ところで、前認定のとおり、三六分前ころなだしおから見た第一富士丸の方位は僅かに落ちていたのであるが、被告人乙川の検面(<書証番号略>)によれば、同被告人もその前後の時期ころ、第一富士丸から見たなだしおの方位が僅かに昇っていたこととなだしおの速力を一一ノット位に思っていたこととが相俟って、会合点ではなだしおが第一富士丸に先行するであろうと予測し、その予測が多少狂っても、その段階で減速し、更に舵を左に切ればなだしおをかわせると思っていたことが認められる。したがって、右予測のとおりであれば、なだしおが会合点に向かって先行し、第一富士丸においては何らの措置も必要なかったはずである。そこで、半速に減速したのは何かの契機があったはずであるところ、なだしおの方位に変化がなくなっていたそのころの状況に照らすと、被告人乙川が、捜査段階で「同艦を先行させようとして半速にした」と述べたことがより信用できる。

また、前記のとおり、なだしおにおいては、三七分前後ころ前進強速を下令した後、二五秒程度経過するまでの間に、ジャイロコンパスレピーターで第一富士丸の方位の変化を見ていた荒井水雷長は、方位に変化がなくなったことに気付いたと述べ、被告人甲野は、自らも方位変化がなくなったことに気付き、三七分三〇秒を少し過ぎたころから短一声以下の下令をしたのであるが、岩井鑑定書(別紙三)によれば、当時のなだしおの速力は約八ノットに落ちていたことが認められる。一方、三六分前ころ、両艦船の速力は、なだしおが10.8ノット、第一富士丸が9.8ノットであり、その速力差は一ノットの状態で荒井水雷長が測定した第一富士丸の方位が、わずかに落ちていたというのであるから、第一富士丸が従前の速力のままであれば、約八ノットに減速されていたなだしお側から見た第一富士丸の方位は昇っていたはずである。しかるに、その方位に変化がなくなったというのは、なだしおの減速に合わせたように第一富士丸も減速したからであると考えられる。ところで、前記のとおり、第一富士丸の半速時の速力は、約7.3ノットであるが、被告人乙川の公判供述によれば、経験上第一富士丸は、全速力から半速になるまで一〇秒〜二〇秒を要するというのであるから、これら半速の時の速力、半速になるまでの経過時間などに荒井水雷長や被告人甲野らが方位変化のないことに気付いた時期などを併せ考えると、第一富士丸が半速に減速した時期は、被告人甲野が短一声以下の下令をしたころの十数秒前ころ、すなわち三七分二〇秒の少し前ころと認めるのが相当である。

この点について、被告人甲野の弁護人らは、第一富士丸が半速に減速したのは三六分半前ころであったと主張し、その理由として、なだしおが前進強速を下令したころ、同艦の速力は8.7ノット位に落ちていたから、第一富士丸が9.8ノットの速力のまま進行していたのであれば、なだしおから見た第一富士丸の方位は変化がなくなっているか、従前と反対に方位が昇っているはずであるのに、被告人甲野が見た第一富士丸の方位の変化は従前と同様な落ち方であり、被告人乙川の見たなだしおの方位も従前と同様に昇っていたというのであるから、それは、なだしおの速力低下に相応するように第一富士丸が減速していたからであると述べる。しかし、前認定のとおり、三六分過ぎころからなだしおが前進強速を下令したころまでの間は、同艦が左舷近距離にヨットと遭遇していたのであるが、この間、荒井水雷長が検面(<書証番号略>)において、「第一富士丸に対する注意が疎かになった。艦長や副長や荒井見張員も同じと思う。第一富士丸の方位変化をとらず、ただ私の視野に入っていたというだけであった。」旨述べ、太田副長も公判供述において「前進強速の下令前は第一富士丸の動きを充分把握していなかった。」旨述べているように、なだしお側の注意が、もっぱら衝突の危険もあったヨットに対して注がれていたものと考えられる。したがって、前進強速を下令するまでの間、被告人甲野が第一富上丸の方位変化に注意していたとしても、その正確さの点に疑問があったものと言わざるをえず、また、被告人乙川も、操舵室の左前の窓枠により、なだしおの方位変化を見ていたというものの、半速に減速した三七分二〇秒前ころはともかく、それよし少し遡った時期においては、なだしおが先行すると安易に考えていた様子が窺われるから、そのころの同被告人の方位変化に関する認識の正確さにも疑問があったものと言わざるをえない。したがって、右のような被告人両名の供述を前提とする右弁護人らの主張は採用できない。

(三) 第一富士丸の左転から衝突まで

前記検証調書並びに被告人乙川の検面(<書証番号略>)及び公判供述によれば、同被告人は、衝突の直前に舵を左に切ってなだしおの艦尾を抜けようとして、操舵輪を二回転させて取舵一杯にし、接近するのを避けるため機関の回転数を下げて微速にしようとしてガバナハンドルを回し、更に、船足を止めようとして可変ピッチプロペラの変節ダイアルをニュートラルにしようとした時衝突したこと、右緊急動作には約一七、八秒の時間を要すること、第一富士丸においては、操舵輪を取舵一杯にしたとき舵が三四、五度になるまで約八秒経過すること、以上の事実が認められる。また、第一富士丸の乗客や乗組員で、当時甲板に出ていたため衝突を目撃した者が数名いたが、衝突の直前に第一富士丸が左転したことに気付いた者は少なく(笹子久信〔<書証番号略>〕、橋本佳代子〔<書証番号略>〕の各検面ほか四名の検面、田畑政弘ほか二名の公判供述)、僅かに乗組員の平間惣一郎(公判供述)と根本典之(検面〔<書証番号略>〕及び公判供述)、乗客の斉藤邦義(公判供述)らがこれに気付いたが、右各供述によれば、その時期はいずれも衝突の直前であったことが認められる。

一方、前認定のとおり、第一富士丸が沈没したころの同船の速力は6.4ノット前後であったが、それは、被告人乙川が衝突の直前に左転しようとした際、ガバナハンドルを回して機関の回転数も下げたことによるものと考えられるので、同船は、左転し始めて間もなく速力が6.4ノット前後に減速される状態にあったものと推測されるから、海上保安大学校助教授日當博喜作成の鑑定書(<書証番号略>)による第一富士丸が取舵一杯により旋回する場合の運動時系列中、初速六ノットと七ノットの場合の各数値を見るべきところ、これによれば、回頭角度が衝突時の状態である一八度〜三八度に達する時間は、初速六ノットのとき一〇秒〜一六秒(そのときの縦距は三〇〜四四メートル)であり、初速七ノットのとき九秒〜一四秒(そのときの縦距は三一〜四四メートル、なお一六秒のときは四九メートル)であることが推定される。

そこで、右被告人乙川が緊急動作に要する時間や目撃者の視認状況、鑑定書からの推定を併せ考えると、被告人乙川が前記緊急動作を取った時刻は、衝突の約二〇秒足らず前ころ、すなわち、三八分一〇秒過ぎころと認めるのが相当である。また、右日當鑑定書(<書証番号略>)によれば、第一富士丸は、左転後衝突まで約四七メートル(同鑑定書における六ノットまたは七ノットの各速力において、二〇秒足らずの時間に接近し、かつ、前記回頭角度に近似する数値を示すのは実験開始後一六秒経過したときであるから、そのときの縦距の平均値は約四七メートルである。また、そのときの速度は、約五ノットである。)進出したことが推定される。

(四) 衝突地点迄の距離及び偏位

ここで、三六分過ぎ以降、第一富士丸が進出した距離を求めると、同分過ぎから(計算上、平均値を取るため同分五秒からとする。)同船が半速に減速した三七分二〇秒前ころまでは、9.8ノットの速力で約三七八メートル、同分前ころから半速に減速されるまで、長く見積もっても二〇秒とすると、その間は9.8ノットと7.3ノットの平均速力で約八八メートル、半速になった三七分四〇秒から三八分一〇秒まで、7.3ノットの速力で約一一三メートル、三八分一〇秒から衝突までは前記のとおり、約四七メートルであるから、これを合計すると約六二六メートルとなる。(なお、前記日當鑑定書〔<書証番号略>〕によれば、第一富士丸が取舵一杯をとったときの一六秒後の横距は、六ノットの速力において8.6メートル、七ノットの速力で11.9メートルであるから、同船が約6.4ノットの速力で三八分一〇秒過ぎころから約一六秒後に衝突したものと計算すると右衝突時の同船の偏位距離は、凡そ右各横距の平均値である約一〇メートルになる。それで、これに基づき三八分一〇秒過ぎころの地点から同船となだしおとの会合点〔K点〕までの距離を求めると、別紙七のとおり、約八一メートルになるから、同船における三六分過ぎの地点から右会合点までの距離は、約六六〇メートルになる。また、、第一富士丸が左に偏位した距離を約一〇メートルとすると、なだしおの前進方向への進出距離は、計算上〔別紙七〕約一〇メートル会合点〔K点〕を超えていたことになるから、同艦における三六分過ぎころから会合点までの直線距離は、約六〇四メートル〔六一四−一〇=六〇四〕となる。

なお、被告人甲野の弁護人らは、第一富士丸が左転したのは、なだしおの艦尾をかわすという初認時からの想定にしたがってこれを実行したものであり、現に、被告人乙川は、その時「なだしおは、左舷三〇度、距離二〇〇メートルに見えた。」と言うが、その角度と距離にあるなだしおの艦尾をかわすには、第一富士丸の旋回性能からみて、取舵一杯の必要はなかったはずであるから、同被告人のとった左転の措置はイージーな左転であり、衝突を回避するという緊急時の操作としてではなかった旨主張する。しかし、被告人乙川の検面(<書証番号略>)及び公判供述によれば、同被告人が左転の措置をとった契機は、なだしおとの距離が二〇〇メートルになったからというものではなく、同艦が先行することを予測したうえ、なお、若干の変化を考えていた同被告人が、その予測にしたがって先に半速に減速したものの、暫くしても同艦が先行するようには見えなかったからであり、そのため「かつかつではあるがかわせる。」と思って左転したというのであるから、先行すると考えた予測自体が狂ったため、急遽左転した様子が窺われるから、それは、やはり緊急動作として短時間に連続して行われたものの一つの措置と認められる。

(五) 第一富士丸の衝突に至るまでの航行、変針、変速のまとめ

以上(一)ないし(四)に認定した事実に、被告人乙川の検面(<書証番号略>)及び公判供述並びに司法警察員海上保安官作成の捜査報告書(<書証番号略>)を併せ検討すると、第一富士丸の衝突に至るまでの動きは、次のようなものであったことが認められる。すなわち

第一富士丸は、被告人乙川が船長として乗組み、一四時一五分ころ鈴繁埠頭を出港し、東京湾を南下して伊豆大島方面へ向かったが、浦賀水道航路第五号灯浮標の西方0.5海里付近で自動操舵による針路を一四五度に設定して実効針路を一四八度に定針し、全速力の約9.8ノットで同航路を南下し始めた。

定針して間もなく、一五時三三分ころ、被告人乙川は、船首の左約三〇度、目測距離約三〇〇〇メートル付近の海上に自船の針路と交差する角度で西進中のなだしおを認めた。同被告人は、そのころから自船の窓枠を使って同艦の方位変化を見ていたが、明確な変化はみとめられないものの、僅かに方位が昇っているように見えたうえ、同艦の速力を一一ノット位と考えたため、同艦が自船の前方を横切るものと予測し、その予測が多少狂っても接近したところで減速し、左に舵を切れば同艦をかわせるものと思った。もっとも、同被告人は、なだしおが先行することを予測したものの、或いは同艦が第一富士丸の通過を待ってくれるかもしれないとの気持ちもあったが、同三六分過ぎころから三七分ころにかけ、左前方で、北上していたヨットの前をなだしおが通り過ぎ、ヨットは反転して南側に針路を変えたように見えたため、なだしおが第一富士丸のために針路を譲ってくれることはなく、前を突き進んで行くものと思った。ところが、その後、同被告人は、昇って行くはずのなだしおの方位に変化がないことに気付き、同艦を先行させようと思い、同三七分二〇秒前ころ速力を半速(約7.3ノット)に減速するとともに、自動操舵から手動操舵に切り換えた。また、なだしおがヨットの前を航過したころから後、疑問信号(短五声以上の信号)は鳴らさなかった。なお、被告人乙川は、衝突の直前ころまで、操舵室の前面左端にある窓の左隅辺りになだしおを見ていたが、その位置は、同被告人が立っていた位置から左約三〇度前後であった。

被告人乙川は、経験上、船足が半速に落ちるまで一〇秒〜二〇秒かかると思っていたため、暫く様子を見ていたが、なだしおの方位は昇らず、不思議に思っているうちに両船の距離はますます近づきその距離一〇〇メートル位になったとき、同被告人は、目測で両船間の距離が二〇〇メートル位に近づいたと誤認し、それでも接近し過ぎたと思ったが、なだしおがそのころ短一声を吹鳴し、右転していたのをいずれも気付かなかったため、左転して減速すれば辛ろうじて同艦をかわせると思い、同三八分一〇秒過ぎころ、ガバナハンドルを操作してエンジンの回転数を落とし、左手で舵を切って取舵一杯にし、続いて、左手を伸ばして左転の合図である短二声の汽笛を鳴らし、可変ピッチプロペラの変節ダイアルをニュートラルにしようとしたころ、前記の状態で両艦船が衝突した。

8  両艦船の衝突に至るまでの状況

以上1〜7に認定した事実により、なだしおと第一富士丸が衝突に至るまでの状況を図示すると別紙六のとおり、頂点の角度が一二二度、他の二角の角度がいずれも三〇度前後という三角形の、頂点に向かって左側になだしおが、右側に第一富士丸が位置していたことになる。そして、頂点を「K」、なだしおが位置する角の角度を「N」、第一富士丸が位置する角の角度を「F」、三角形の頂点からなだしおまでの距離を「NX」、第一富士丸までの距離を「FX」、両船の距離を「A」とすると、正弦の定理により、A=NX×sin122÷sinF、FX=NX×sinN÷sinFとなる。三六分過ぎになだしおがいた地点からK点までの距離が約六〇四メートルであり、この数値から、同艦が三六分過ぎの地点から進出した距離を控除するとNXが求められるが、なだしおの右進出距離は、岩井鑑定(別紙三)により凡そ推定できる。一方、第一富士丸において三六分過ぎの地点からK点までの距離は、前認定のとおり、約六六〇メートルであるほか、途中経過点までの距離も算出されるので、先の計算で求めたFXは、六六〇メートルから第一富士丸の運動により求められる途中経過点までの同船の進出距離を控除した数値に近似するはずである。以上の考察により、一覧表を作成すると別紙五のとおりになり、これによって、両艦船間の凡その船間距離や方位角(潜水艦においては方向角)を求めることができる。すなわち、三六分過ぎころは、凡そ、N=三〇度〜三一度、F=二八度〜二七度、三七分前後ころから同分三〇秒ころまでは、凡そ、N=三一度〜三二度、F=二七度〜二六度、両艦船間の距離Aは、三六分過ぎころ、約一一〇〇メートル、三七分前後ころ約六二〇メートル、三七分二〇秒ころ約四六〇メートル、三七分三〇秒過ぎころ約三五〇メートル、三七分四〇秒ころ約三〇〇メートルとなる。これを図示すれば、別紙六のとおりになる。そうすると、三六分過ぎころからの船間距離に関する被告人甲野の認識には、誤認があったことになる。また、被告入乙川が三三分ころなだしおを左三〇度に見たころ及び被告人甲野が三五分ころ第一富士丸を右三〇度に見たころの両艦船の船間距離は、計算上、それぞれ約三〇〇〇メートル、約一七〇〇メートルになる。

なお、なだしおの号令時期、順序について、検察官が主張するところは、三六分ころ一回目の停止、三七分ころ前進強速、三七分三〇秒ころから短一声、面舵一杯、再送、面舵一杯、二回目の停止、三八分ころから後進原速、後進一杯、三八分四〇秒ころ衝突というものであり、当裁判所のこれに関する前記認定は、時刻の点で若干異なるに過ぎないものであるところ、被告人甲野の弁護人らは、岩井鑑定のうち、NZ1やNKの各平均(別紙三)が号令時期及び順序において検察官の右主張に沿うが、これによれば、偏位距離や右回頭角度が前認定の実際値と著しく異なるのに対し、被告人甲野が主張するように特別操舵があり、面舵一杯が後進一杯の後に下令されたものとすれば、これを実験した岩井鑑定のNZ3の平均(別紙四)のとおり、偏位距離や右回頭角度ほかの点で全て実際値と符合するから、検察官の主張は誤りである旨述べるので、その指摘にかかる矛盾は、当裁判所の認定においても生じることになる。すなわち、前認定のとおり、なだしおは、三七分五〇秒前ころまでに面舵一杯を下令し、三八分三〇秒前ころ衝突したのであるが、衝突時の偏位距離、右回頭角度は右各下令時期に近似する岩井鑑定(NZ1の平均、別紙三)によると、右六五メートル及び右七六度というものであり、いずれも実際値と異なる感がなくはない。しかし、前認定のとおり、推定衝突地点や衝突時のなだしおの推定回頭角度などは、いずれも不確定要素を含み、ある程度の幅を持ったものであるから、衝突時の偏位距離約三四メートル、回頭角度四〇度〜五五度という実際値は、いずれも少しの幅もない固定されたものとは言えないこと、認定される各号令の時期についても、可能な限りの推定を重ねても、なお、若干の幅を認めざるをえないから、これに基づく結果、すなわち、推定されるなだしおの航跡が、その性質上、時刻を限定して行わざるをえなかった岩井鑑定との間に数字上の隔たりがあるのは不可解なことではない。

三  被告人両名の過失責任について

1  航法の適用

(一)  海上衝突予防法において互いに航路を横切る両船が衝突のおそれのある見合い関係にあるとは、注意深い船長が注意していたとすれば衝突の危険があると認めるべき両船相互間の視認関係をいうのであるが(旧法一九条に関するもの、最判昭三六年四月二八日第二小判決)、その判断は、両船の大小、性能、相互の方位の変化模様、気象、海象など諸般の状況からなされるべきものである。

そこで、本件についてみるに、司法警察員海上保安官作成の捜査報告書(<書証番号略>)によれば、昭和六三年七月二三日当時の気象、海象は、天候曇り、北の風、風速毎秒七〜八メートル、波浪方向北、波高0.5〜一メートル、うねり方向北、波高二メートル未満、視程約八キロメートルで、船舶の航行に何らの支障もない気象、海象であったことが認められる。

(二)  先ず、なだしおと第一富士丸との関係について見るに、なだしおは排水二二五〇トン、全長七六メートル余、第一富士丸は総トン数一五四トン、全長三三メートル余で、いずれも動力船であるところ、前認定のとおり、なだしおにおいては、三四分から三五分にかけて浦賀水道航路を横断し、真針路二七〇度、速力10.8ノットの前進強速で航行中、同航路を出た旨の報告があったころ、被告人甲野は、右斜め約三〇度、距離約一七〇〇メートルのところに目測速力約一〇ノット、自艦進路と交差する角度で同航路に沿って南下中の第一富士丸を初認し、荒井水雷長が二〇秒間程度その方位変化を測定したところ、方位の落ち方が小数点以下であったというのであり、一方、第一富士丸においても、真針路一四八度、速力9.8ノットで航行中、すでに三三分ころ、被告人乙川が左約三〇度、距離約三〇〇〇メートル付近に目測速力約一一ノットで航行中のなだしおを認め、そのころから窓枠を使って方位変化を見ていたところ、僅かに方位が昇っていたというに過ぎないのであるから、これら両船の大小、方位変化の模様、速力、船間距離などのほか、潜水艦教育訓練隊教育科の発行にかかる運航スタディーガイド(<押収番号略>)には、衝突事故防止のための留意事項として、「回避に対する処置は、できる限りターゲットが四〇〇〇ヤード以内に近接する以前に行うのがよい。(二〇〇〇ヤード以内に入れない)」と規定されていること、などを併せ考えると、なだしおにおいて、荒井水雷長が第一富士丸の方位変化を測定し終えたころには、同艦と第一富士丸との間に衝突するおそれがある見合い関係が成立したと言わねばならない。そして、その時刻は、なだしおにおいて、前認定のとおり、引き続き、左前方にヨット「イブワン」を認め、その方位を測定した後、荒井水雷長と被告人甲野との間で操艦方法に意見の違いが生じたことを経て三六分過ぎころ停止が下令されたという後の経過に照らすと、凡そ、三五分過ぎころと認められる。

(三)  次に、なだしおとヨット「イブワン」との関係について見るに、なだしおにおいては、被告人甲野が、荒井水雷長から第一富士丸の方位変化の報告を受けたころ、左約六〇度、距離約六〇〇メートルに自艦の進路と交差する角度で北上中のヨット「イブワン」を初認した。暫くして、荒井水雷長も左四五度、距離約三〇〇メートルに同艇を認め、ジャイロコンパスレピーターでその方位変化を測定し、被告人甲野に対し「ヨットの方位が昇っている」旨の報告をした。続いて、同人と被告人甲野との間で操艦についての前記やりとりを経て、三六分過ぎころ被告人甲野から機関「停止」が下令されたのであるが、左約六〇度にヨット「イブワン」を見たのは、前記のとおり、三五分過ぎころであったのであるから、その後の三六分過ぎころまでの右経過に照らすと、荒井水雷長が左約四五度、距離約三〇〇メートルにヨット「イブワン」を認め、その方位変化を測定し終えた時刻は、凡そ、三五分三〇秒過ぎころと推認される。このころ、ヨット「イブワン」は、真針路三二五度〜三三〇度に針路を向け、速力四ノット強で帆走しており、当時なだしおの速力が10.8ノットであったことから、計算上は、被告人乙川の弁護人が主張するとおり、確かになだしおがヨット「イブワン」の先を航過する関係にあったことが認められる。しかし、右計算(会合点の角度五五度〜六〇度、なだしお側の角度四五度、ヨット側の角度七五度〜八〇度の三角形で、なだしおとヨットの距離三〇〇メートルを前提に正弦の定理によって会合点までの距離を求め、なだしおが会合点に到達したときのヨットの位置を求める。)の上でも、なだしおがヨット「イブワン」の先を航過するときの両艦艇間の距離は約一〇五〜一一九メートルであって、両艦艇の全長、速力などからして、この間隔は海上における航過距離としては十分な間隔とはいえないうえ、右計算は目測に基づくものであるからある程度の幅を見込んでみるべきであるし、荒井水雷長の検面(<書証番号略>)及び公判供述、足立船長の公判供述並びに被告人甲野の公判供述によれば、現実の両艦艇の態勢は、荒井水雷長も足立船長もともに計算とは逆にヨット「イブワン」の方がなだしおの先を航過すると思っていた程紛らわしい関係にあり、かつ至近距離に接近する態勢にあったことが認められる。そうするとこのヨットとなだしおの関係は、コンパス方位に明確な変化が認められるけれども、衝突するおそれがあり得ると認めるべき視認関係と言わなければならず、凡そ三五分三〇秒過ぎころ、なだしおとヨット「イブワン」との間にも、結局、海上衝突予防法上の衝突するおそれがある見合い関係が生じたと言わなければならない。

(四)  また、第一富士丸とヨット「イブワン」との関係について見るに、第一富士丸は、前記のとおり、三六分前ころは真針路一四八度(逆に見れば三二八度)で航行していたが、ヨット「イブワン」は、そのころ真針路三二五度〜三三〇度で航行していたのであるから、両船の針路は、ほぼ平行していたものと認められるうえ、双方の針路の間隔を見ると、計算上、当時両船の針路の間隔は数百メートル以上離れていたものと認められる。その他、第一富士丸とヨット「イブワン」の大きさ、速力、当時六〇〇メートル以上あったことが明らかな両船間の距離などの点に徴すれば、三六分前ころはもちろん、その前後を通じて最後まで、両船間には衝突するおそれがなかったものと認められる。

(五)  右に検討したところによれば、動力船であるなだしおは、三五分過ぎころ、同じく動力船である第一富士丸との間に、同船を右舷に見る関係において、互いに進路を横切る場合で衝突するおそれがある態勢となったが、続いて同分三〇秒過ぎころからは、動力船に対し優先通行権を有する帆船「イブワン」との間にも互いに進路を横切る場合で衝突するおそれがある態勢となったわけである。このような場合、三船間にいかなる航法が適用されるべきであろうか。被告人甲野及びその弁護人らは、海上衝突予防法一五条一項(横切り船の航法)は、二隻の動力船間においてのみ適用され、しかも両船が全く制約の存しない海上を航行する船舶であることを前提とするものであり、第三船の介在によって二隻の動力船間の行動が制約される場合には、同法の適用がない旨主張する。すなわち、本件について言うならば、動力船なだしお、帆船イブワン、動力船第一富士丸の三隻が接近して、なだしおとイブワン、なだしおと第一富士丸の各艦船間にそれぞれ進路を横切る関係があり、なだしおのイヴワンに対する回避措置の結果によっては、なだしおと第一富士丸との態勢に変化が生じることとなり、なだしおとしては、その後の自艦の行動に影響があり、そのことは第一富士丸においても同様であって、なだしおと第一富士丸とが、共に帆船イブワンの介在によって二艦船間の行動が制約される場合は、二隻の動力船間においてのみ適用される横切り船の航法が適用されないことは論を俟たないところであるから、本件においては、海上衝突予防法三九条の船員の常務によって律せられるべきであり、これによって必要とされる注意をもって適切な時期、方法により避譲動作をとればそれでよいというのである。

しかし、イブワンの介在によって、また、なだしおとイブワンとの二艦船間に衝突回避の措置がとられるものとしても、それによってなだしおと第一富士丸の二艦船間の行動にどのような制約が加わるのか明らかでなく、むしろ本質的な影響は与えないと考えられるので、所論は採用できない。

ところで、海上衝突予防法は、航法規定の適用については、定型的航法の適用を原則とし、「船員の常務」は例外規定としている。

さて、本件においては、見合い関係成立の時点が、なだしお対第一富士丸間と、なだしお対ヨット「イブワン」間とで約三〇秒の差があるけれども、接近してくる他船のコンパス方位を測定し、その変化を見るのに要する時間を考慮すると、この時間差を重視するのは相当ではない。両見合い関係は、大凡、同時に成立したものと見做して以下論ずる。

そして、そのころ(三五分三〇秒ころ)の視認される各艦船の状況は、なだしおは、真針路二七〇度、速力10.8ノットで航行中のところ、「イブワン」は、なだしおの左舷前方、真針路三二五度〜三三〇度、速力四ノット強で帆走中であり、一方、第一富士丸は、なだしおの右舷約三〇度、距離約一四〇〇メートルばかりを真針路一四八度、速力約9.8ノットで航行中であって、動力船なだしおは帆船「イブワン」と著しく接近し衝突するおそれがあり得ると認むべき状況(衝突するおそれがある状況)にあり、また、動力船第一富士丸とは横切り関係にあったのであるから、ここにおいて原則に則り二船間の航法(定型的航法)をそれぞれ適用すれば、なだしおは「イブワン」に対しては海上衝突予防法一八条一項、第一富士丸に対しては同法一五条一項の適用で避航船としての避航義務を負い、直ちに両船との衝突するおそれを解消すべく、適切な衝突回避措置をとらなければならなくなるが、この場合の措置は両船との衝突回避措置でなければならないが、当時「イブワン」は著しく接近しているものの、第一富士丸とはまだ距離もある状況であったから、大幅な右転、或いは速力の減速、停止(被告人甲野は機関停止を下令しているが不十分)或いは減速とともに大幅な右転の措置をとれば両船との衝突するおそれは一挙に解消されると認められ、これに対し、「イブワン」、第一富士丸は、いずれも保持船として、ただ同法一七条に従い行動すればよいこととなる。要するに、本件においては、三艦船間に定型的航法が適用されても相矛盾する避航義務と保持義務を同時に負う艦船は存在せず、問題はないのであって、各艦船に定型的航法が適用されて然るべきであり、何の障害も生じないのである。したがって、本件のなだしお、第一富士丸の見合い関係には、海上衝突予防法一五条一項の横切り船の航法が適用され、船員の常務によって律するべきではないと言わなければならない。

2  被告人甲野の過失

そこで、右の考察から被告人甲野の過失責任を検討する。なだしおは、三五分過ぎころには第一富士丸と見合い関係が成立し、ついで同分三〇秒過ぎころにはヨット「イブワン」が左舷艦首方三〇〇メートルばかりにあって、この先著しく接近する状況であったから、両船艇いずれとの関係でも避航船にあたり、第一富士丸の進路も、またヨット「イブワン」の進路も避けなければならない態勢になった。従って、避航船なだしおの操艦を指揮する被告人甲野としては、荒井水雷長の「右の漁船の方位僅かに落ちます。左のヨットの方位昇ります。右の漁船の方に向けます。」との進言を容れ、右転の措置をとるべきであったのに、これを拒み、ヨット「イブワン」に対する避航措置として定針のまま機関「停止」を下令したものの、三七分前後ころ、依然として第一富士丸のコンパス方位に明確な変化は認められないうえ、同船はすでに船間距離約六二〇メートルに接近してきており、同針路のまま航行を続ければ、同船と衝突するおそれがあったのであるから、直ちに大幅に右転し、或いは船足を止めるなどして、同船との衝突を未然に防止すべき業務上の注意義務があったと言うべきである。しかるに、被告人甲野は、右の衝突回避の措置をとることなく第一富士丸の前を横切ろうとして前進強速を下令し、同針路のまま航行を続け、同分三〇秒過ぎころに至って衝突の危険を感じ、判示の衝突回避の措置をとったが間に合わず、自艦を第一富士丸に衝突させるに至ったのである。ところで、岩井鑑定(NZ1、NKの各平均、別紙三)によれば、前進強速を下令したころなだしおの速力は8.5ノット前後であり、日當鑑定書(<書証番号略>)によれば、8.6ノットの速力で航行中、停止、後進原速、後進一杯、面舵一杯を下令したときのなだしおの縦距は約二〇五メートル、横距は約一一メートルという数値がそれぞれ認められるところ、三七分ころ、なだしおから、第一富士丸との会合点までの距離は約三三〇メートル、同分二〇秒ころ、同距離は約二五〇メートル、同分三〇秒ころ、同距離は約二〇〇メートル(別紙五)であるから、この数値に、前記のとおり若干の幅を考慮すると、被告人甲野が前進強速を下令した三七分前後ころに、右の回避措置をとっていたとすれば本件衝突を回避し得たと考えられるから、被告人の右所為は操艦者としての業務上の注意義務を怠ったものと言うべく、これによって生じた衝突の結果につき過失責任を免れない。

なお、被告人甲野やその弁護人らは、被告人乙川が衝突の直前に第一富士丸を左転させたことが本件衝突の原因であり、この第一富士丸の左転さえなければ本件衝突は回避し得た旨主張するが、前認定説示したとおりの両艦船の航行状況下において、避航船であるなだしおを操艦する被告人甲野が、余裕のある時期に先ずなすべき衝突を避けるための動作をとらず、前進強速を発令して自艦を直進航行させた過失行為により、保持船である第一富士丸に対し、衝突を回避するための緊急措置を取らせる危殆状況を作り出した以上、被告人乙川が衝突直前に第一富士丸を左転させたがために本件衝突事故が生じたとしても、被告人甲野は、その過失行為による危殆状況下に生じた衝突事故については、その過失行為によって生じた相当因果関係のある事故として過失責任を免れない。

3  被告人乙川の過失

(一) 疑問信号を吹鳴すことを怠った過失

海上衝突予防法三四条五項は、「船舶は、他の船舶が衝突を避けるために十分な動作をとっていることについて疑いがあるときは、短五声以上の疑問信号を吹鳴しなければならない。」旨規定しているが、横切り船においても、避航船が避航義務に気付いていないことも考えられるから、保持船は、右法条により、避航船に対し、適切な時期に、その動向に疑問がある旨を知らせ、避航などの動向を明確にするなど適切な行動をとるよう促す義務があるものというべきである。

本件においては、被告人乙川は、三六分過ぎころから三七分前後ころにかけ、なだしおがヨット「イブワン」の前を通り過ぎ、避航にための措置をとらず、保持船である自船の前方を航行せんとしているのを目撃したのであるから、遅くとも三七分過ぎころには、同被告人において、なだしおが衝突を避けるために十分な動作をとっているかどうか疑いが生じたものと認められるので、衝突を未然に防止するため、なだしおに対して、疑問信号を吹鳴し、避航などの動向を明確にするよう促す注意義務があったものと認められるが、被告人乙川はこれを怠り、疑問信号を吹鳴しなかった。ところで、この疑問信号は、なだしおにおいて、同艦のみによって衝突回避動作をなしうる最後の時期が三七分ころから同分二〇秒ころまでという右疑問信号吹鳴義務の生じた時期に究めて接近した時期であったから、右信号によってなだしおに注意を促し同艦に速やかに回避動作をとらせるという大きな意味があったうえ、その直後の三七分三〇秒〜四〇秒ころ、第一富士丸自らが右転などの回避動作をすべき業務上の注意義務が生じるのであるから、疑問信号の吹鳴と右転するなどの回避動作とは互いに牽連関係にあり、かつ、共に究めて接近した時間内に生じた本件衝突を回避するための方法であったものと認められるから、右疑問信号吹鳴義務違反は、その直後に認められる右転などの回避動作義務違反と共に、本件衝突との間に相当因果関係があるものと言わなければならない。

被告人乙川の弁護人らは、同被告人が疑問信号を吹鳴しなかったのは、なだしお側には四名の見張りがいたので、避航船としての動作をとるべき客観的状況を把握していたはずであるから、敢えて疑問信号を吹鳴する必要がなかったこと、なだしおと第一富士丸の船間距離が離れていたため、信号が届かなかったこと、なだしおは、当時N1運転を実施しようとして敢えて海上衝突予防法を無視する行動をとっていたから、仮に疑問信号を吹鳴しても、その行動を是正させる効果は期待できなかったこと、などを理由として、疑問信号を吹鳴しなかったことと本件衝突との間には相当因果関係がない旨主張する。

しかし、なだしおにおいて、三七分前後ころには第一富士丸の方位変化についての注意が疎かになっていたこと、当時、N1運転の予定があったものの、敢えてそれを実施することは考え難い状況であったことは既に述べたとおりであるほか、三七分ころのなだしおと第一富士丸との船間距離は、約六二〇メートルであったから、司法警察員海上保安官作成の実況見分調書(<書証番号略>)によれば、右程度の距離では、なだしおにおいて第一富士丸の汽笛を聞き取れることが認められるから、弁護人らの右主張はいずれもその前提を欠くものと言わざるをえない。

(二) 船足を止め、或いは大幅に右転する動作を怠った過失

イ 海上衝突予防法一七条三項は、「保持船は、避航船と間近に接近したため、当該避航船の動作のみでは避航船との衝突を避けることができないと認める場合は、衝突を避けるための最善の協力動作をとらなければならない。」旨規定している。被告人乙川は、三七分二〇秒前ころ、なだしおが先行すると思って第一富士丸の速力を半速に減速したのであるから、そのころ、同被告人は、避航船なだしおが避航のための適切な行動をとっていないことを認識した筈であるところ、その時点での両艦船の船間距離は約四六〇メートルという接近した状態であり、かつ、なだしおから両艦船の会合点までの距離が約二五〇メートルでなだしおの運動性能に照らして、なだしおの回避動作のみではもはや第一富士丸との衝突を避けることができない状態に至ったものと認められるから、保持船である第一富士丸を操船する被告人乙川としては、そのころ、衝突を避けるための最善の協力動作をとらなければならなかったと言わなければならない。すなわち、同被告人がそのころ第一富士丸の速力を半速に減速した措置は、不十分もしくは不適切であり、半速にするとともに、或いは半速にすることに換えて、船足を止め、或いは大幅に右転すべき注意義務があったと言うべきである。ところで、三七分五〇秒ころ、第一富士丸となだしおとの船間距離は約二三〇メートル(別紙五、これは保持船の全長の約七倍)であったが、右数値に若干の幅があること及び両船の大きさなどを考えると、両船が右距離に接近する状態は、すでに衝突の危険が迫っている状態と考えるべきである。(因みに、同時刻ころ、第一富士丸及びなだしおから両艦船の会合点〔K〕までの距離は別紙五に記載のとおりそれぞれ約一五六メートル、約一一一メートル、両艦船の速力は、第一富士丸において約7.3ノット、なだしおにおいては岩井鑑定〔別紙三〕により約9.2ノット〔NZ1とNKの平均〕とそれぞれ推定されるところ、当時、なだしおは、面舵一杯をかけた直後で回頭角度は微々たるものであり、ほぼ直進している状態であったと考えられ、被告人乙川も同艦が直進すると思っていたのであるから、このように互いに直進して進路を横切る状態で、三七分五〇秒ころ、第一富士丸が停止や右転の措置をとった場合のその後の両艦船の状態をみるに、司法警察員作成の捜査報告書〔<書証番号略>〕によれば、第一富士丸においては、9.8ノットの速力で機関を停止すると三五秒後に約一〇八メートル進出するというのであるから、約7.3ノットの速力のときは、速力比によって、三五秒後には約八一メートル進出すると推測され、また、日當鑑定書〔<書証番号略>〕によれば、同船において、七ノットの速力で取舵一杯をとれば、三五秒後の縦距が約六九メートル、横距が約五三メートルと推定され、同じ速力で面舵一杯にしたときの旋回性能も右数値に近似するものと考えられるが、これら停止惰力並びに左転や右転の旋回性能に照らすと、第一富士丸において、半速の約7.3ノットで走行中、三七分五〇秒ころから機関を停止し、あるいは面舵一杯をとると、計算上〔別紙八〕その三五秒後にはなだしおとの船間距離が約八〇メートル以内に接近することになる。そして、右鑑定の結果や船間距離にはいずれもある程度の幅があることに併せ両艦船の大きさなどを考えると、右計算上、第一富士丸となだしおが約八〇メートル以内に接近する状態〔保持船の全長の約2.5倍〕は、既に、海上では衝突の迫った状態であるものと考えるべきである。)したがって、被告人乙川が操船する第一富士丸においては、遅くとも三七分三〇〜四〇秒ころには大幅な右転や船足を止めるなどの衝突回避動作をとるべきであったと言うべきである。そうすると、被告人乙川が右の回避措置をとっていたとすれば、衝突の危険の迫った状態においてではあるが、衝突だけは回避しえたと考えるから、被告人乙川において、僅かに速力を半速に減速したのみで右転や船足を止めるなどの衝突回避動作をとることなく航行を続け、なだしおと衝突するに至った同被告人の右行為は、本件衝突との間に相当因果関係がある過失であるというべきである。

なお、昭和五八年ころ行われた第一富士丸の試運転時の後進力試験(<書証番号略>)及びそれを担当して行った鈴木信正の公判供述によれば、同船においては、11.3ノットの速力で前進中、停止及び後進をかけると二〇秒後に船体が停止するというのであるから、停止するまで約五八メートル進出することになるが、7.3ノットの速力で停止、後進をかけると、速力比によって、長く見積もっても停止までの時間が約一三秒、進出距離が約三八メートルとなることが予測されるから、右措置によれば、三七分四〇秒以降においても、第一富士丸がなだしおとの衝突を避けることができたと考える余地もある。また、可変ピッチプロペラのピッチを前進から後進に切り換えることによっても同様に考えることができる。しかし、右各措置は、いわば非常手段とも言うべきものであるが、至近距離に至って右のような非常手段を用いれば、相手船においても狼狽して不測の行動に及ぶことが考えられるので、回避手段は、相手船に不意打ちとならないような安全な時期及び方法によるべきであるところ、停止惰力や旋回圏の長い船舶においては、通常、衝突回避の手段として右転や停止の措置を考えるべきである。そして、適切な時期にそのような右転等の措置を怠った場合は、後に非常手段が残されているとしても過失責任を免れないものと言うべきである。

ロ 被告人乙川は、前認定のとおり、三八分一〇秒過ぎころ、左転の措置をとったのであるが、右措置は、三七分二〇秒ころ以降に生じた海上衝突予防法一七条三項所定の衝突を避けるための最善の協力動作の一つと評価できるものであって、同条二項の任意な回避措置ではなかったものであるから、左転が直ちに同条二項の左転禁止義務に違反するものでないことは同被告人の弁護人らが主張するとおりである。

しかし、被告人乙川が左転の措置をとった三八分一〇秒過ぎころには、既になだしおは右に回頭しており、船間距離約一〇〇メートルの至近にまで航行していたのであるから、ここで第一富士丸を左転させれば衝突必至の態勢にあって、被告人乙川としては第一富士丸を左転させるべきでなかったのに、なだしおが右に回頭しているのに気付かず、同艦の艦尾方向に回ろうとして第一富士丸を左転させ、その船首を同艦右艦首に衝突させたのである。そして、岩井鑑定(別紙三)によれば、三八分一〇秒ころ、なだしおにおいては、すでに右約三〇度程度に回頭していたことになるが、第一富士丸の乗客で当時甲板で事故を目撃した岡田敏男、田畑政弘及び横井時惟並びに同船の乗員で同じく甲板上で事故を目撃した平間惣一郎及び根本典之らの各公判供述によれば、いずれも衝突の前ころなだしおが回頭して来たことを目撃したのであるから、その回頭状況は、一般人にも分かる程度に明確なものであったと考えられ、右鑑定と符合するから、被告人乙川においても通常の注意をしておれば、右時刻ころ、なだしおの右転に気付いたはずであると考えられるうえ、同被告人の検面(<書証番号略>)によれば、同被告人は、なだしおの汽笛を最終回避動作をするまでの間に聞いたが、同艦が前を先行すると思い込み、汽笛を鳴らして針路を変えることを予測していなかったため、聞いた汽笛の意味を理解しなかったことが認められる。したがって、被告人乙川が、左転の措置をとるころ、なだしおの右転や汽笛に気付かなかったのは同被告人の不注意によるものであり、かつ、注意しておればこれらに気付くことができ、その結果、衝突という事態を予見できたものと言わなければならない。

なお、被告人乙川の弁護人らは、三七分三〇秒ころ以降は、第一富士丸において、衝突を回避できる手段がなかったから、同被告人が左転の措置をとったことは本件事故との間に相当因果関係がなかった旨主張するが、被告人乙川や元第一富士丸の船長であった豊田直樹の各公判供述によれば、第一富士丸には、可変ピッチプロペラのピッチを後進に切り換えれば前進中にも短時間で後進に切り換えることができるうえ、前記のとおり、第一富士丸においては、11.3ノットの速力で前進中、停止及び後進をかけると二〇秒後に約五八メートル進出して船体が停止するというのであるが、三八分一〇秒過ぎころの第一富士丸の速力は、約7.3ノットであり、右速力を大きく下回っていたのであるから、7.3ノットの速力で可変ピッチプロペラのピッチを後進に切り換えれば、速力比によって、長く見積もっても一三秒後に約三八メートル進出した後に後進が始まることが推測される。一方、前記のとおり、同船の右時刻ころから衝突時までの進出距離が約四七メートル、左に偏位した距離が約一〇メートルであるから、これら数値に照らすと、同船は約7.3ノットの速力で進行中、三八分一〇秒過ぎころに可変ピッチプロペラのピッチを前進から後進にすると、約一三秒直進し、衝突地点の約九メートル手前で停止し、続いて後進し始めることになり、停止時には左前方に停止の直前で船足の鈍ったなだしおが迫っている状態が想定される。そして、このような両艦船の運動状況を考えると、被告人乙川が、三八分一〇秒過ぎころ左転の措置に換え、可変ピッチプロペラのピッチを後進に切り換える措置をとっておれば、両艦船は、辛うじて本件のような衝突を回避することができた可能性を否定することができない。

また、日常鑑定書(<書証番号略>)によれば、第一富士丸が七ノットの速力で取舵一杯の措置をとれば、一六秒〜二〇秒後には縦距が約五〇〜五八メートル、横距が約一二〜二〇メートル、回頭角度が約四六〜六〇度になるというのであるから、この旋回性能によれば、被告人乙川が三八分一〇秒過ぎころから半速の約7.3ノットで面舵一杯をとれば、第一富丸はその一六〜二〇秒後に進路から約一〇メートル以上右に偏位し、約五〇〜六〇度回頭していたものと推定される。そして、そのころのなだしおの前記状態や両艦船の大きさを併せ考えると、やはり両艦船は、辛うじて本件のような衝突を回避することができた可能性を否定することができない。

そこで、右のように衝突を回避できる可能性がなくはなかったことやその結果の予見可能性があったことなどを考えると、被告人乙川がとった左転の措置は本件事故の原因となる過失と言わなければならない。

(三) したがって、被告人乙川も、右(一)、(二)の過失により本件の発生した結果につき過失責任を免れない。

(法令の適用)

被告人甲野の判示第一の所為中及び被告人乙川の判示第二の所為中、第一富士丸を覆没させた各業務上過失艦船覆没の点は、いずれも行為時においては平成三年法律第三一号による改正前の刑法一二九条二項、一項、罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては、右改正後の刑法一二九条一項、二項に、中根晃司ほか二九名に対する各業務上過失致死及び河原昭ほか一六名に対する各業務上過失傷害の点は、いずれも行為時においては平成三年法律第三一号による改正前の刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては右改正後の刑法二一一条前段に該当するが、右は犯罪後の法令により刑の変更があったときにあたるから刑法六条、一〇条によりいずれも軽い行為時法の刑によることとし、各業務上過失艦船覆没と各業務上過失致死傷は、いずれも一個の行為で四八個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条によりいずれも一罪として刑及び犯情の最も重い死亡者一名に対する業務上過失致死罪の刑で処断することとし、所定刑中いずれも禁錮刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人甲野を禁錮二年六月に、被告人乙川を禁銅一年六月にそれぞれ処し、情状によりいずれも同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から四年間それぞれその刑の執行を猶予し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項本文により、主文第三項のとおり、被告人両名に負担させることとする。

(量刑の理由)

一  本件は、海上自衛隊の潜水艦と釣り客を乗せた遊漁船が衝突して遊漁船が覆没し、その乗客、乗員三〇名が死亡し、一七名が負傷したという近時の海難事故ではまれに見る大惨事であり、楽しかるべき行楽の一日に多数の者が一瞬にして悲劇のどん底に落ちたのであるが、死亡者の多くは、一家の支柱とも言うべき働き盛りの年代の者や前途のある二〇代の者であり、また、親と子供、家族で乗船していたうちの妻など、一際、涙を誘う者も含まれており、亡くなった本人の無念さはもとより、遺族に与えた精神的打撃と悲しみは察するに余りがあると言わねばならない。更に、救助された者も、まさに九死に一生を得たものであり、その精神的苦痛は多大なものがあったと推測される。のみならず、本件衝突事故の一方が潜水艦であったことから、特に国民の耳目を引き、社会に大きな衝撃を与えた。

二 このような大惨事を招いた原因は、ほかならぬ被告人両名の過失によるものであり、その刑事責任はいずれも重いと言わざるをえないところ、被告人甲野は、第一富士丸の方位変化や船間距離を慎重に判断する態度に欠け、安易に同船の前を横切れると考えて前進強速をかけ、近距離になって急遽右転の措置をとったのであるが、海上衝突予防法に規定された避航船の義務を遵守し、早期、且つ、大幅に避航措置をとっておれば、本件事故は容易に避けることができたものと考えられるから、同被告人の判示過失は本件事故の一次的原因をなすものと言わねばならない。また、被告人乙川も、なだしおが先行すると安易に考え、その予測が多少狂っても、接近したところで舵を左に切れば同艦をかわせると思い込んで漫然と直進し、至近距離になって急遽左転するなどしたのであるが、第一富士丸が保持船であったとは言え、避航船の動向に注意し、海上衝突予防法に従って疑問信号を発したり、保持義務が解除されたときには速やかに衝突回避の措置をとっておれば、被告人甲野の右過失があったとしても本件事故を避けることができたものと考えられ、更に、至近距離に至っても可変ピッチプロペラのピッチを後進に切り換えるなどの措置をとっていたならば本件事故を避け、或いは被害を少なくすることができたものと考えられるから、被告人乙川の判示過失は、本件事故の二次的原因となったものと言わねばならない。そして、被告人両名の右のような操艦或いは操船の姿勢は、多数の人命を預かる艦長或いは船長として、甚だ慎重さに欠けるものであり、いずれも強く非難されるべきであるが、海上衝突予防法に照らす限り、両被告人の過失の軽重は、被告人甲野においてより重いと言わざるを得ない。しかし、至近距離で衝突を引き込む左転の措置に及んだ被告人乙川の責任も被告人甲野のそれに比較して格段に軽いものではない。

三  また、なだしおにおいては、事故発生後、遭難者の救助活動が若干遅れた様子が認められるが、潜水艦の構造上、やむをえないところがあったにせよ、なお、状況判断の遅れが認められるほか、救命用具の保管場所など再考すべき点があったことも否めない。更に、事故後、衝突時刻等の確認をする過程で被告人甲野の指示の下に航泊日誌や海図の記載が書き改められたが、その方法が加除、訂正という正規の仕方でなかったため、後に世間の疑惑を招き、なだしお及び海上自衛隊の信用を損ねた。また、被告人甲野は、本件当時を含め、浦賀水道航路を北上する際は、航海保安部署をかけて見張員を増員する措置をとっていなかった。

四  しかしながら、本件事故は、右のように被告人両名の過失が競合して発生したものであるほか、なだしおにおいては、当時艦橋に被告人甲野のほか荒井水雷長、太田副長及び荒井孝司見張員らがおり、発令所では太田和幸船務士が潜望鏡を覗いて艦位測定のほか見張りもしており、佐々木電測員がレーダーで監視していたのであるから、いずれも各自の立場で周囲の状況を見張り、且つ、判断して被告人甲野に対して的確な報告や進言をすることができたはずであるのに、これをした形跡がない。もっとも、哨戒長であった荒井水雷長は、比較的早期に右転の措置をとろうとしたが、被告人甲野がこれを了解しないとみるやその後は同被告人の指揮に従ったに過ぎない。潜水艦など自衛隊の艦船における指揮命令が厳格なものであるにせよ、艦長に対する補佐を否定すべきものではないはずであるから、やはり右各人にも、必要な報告や助言を怠った落ち度があったものといわざるを得ず、その意味では、なだしおにおいて本件事故の責任を、一人、被告人甲野にのみ帰することができない面もある。一方、被告人乙川は昭和六三年五月ころ、約一週間、第一富士丸に船長として乗組み、その後同年六月下旬から再び同船に船長として乗船していたが、同船での乗船期間は通じて一か月余りに過ぎず、前の船長からの引き継ぎがあったものの、同船の性能などについて必ずしも十分な知識を有していたとは言えない状態であったうえ、同船の所属していた富士商事有限会社は、当時赤字経営のため従業員に対する給料の支払いも遅れる状態で、退職する従業員もあって、被告人乙川も本件事故当日の航海を最後に同船を降りる積もりであったが、当日支払われるべき給料を貰えず、不満を残したまま操船していたこと、当日は、乗客名簿が出航前に被告人乙川の手元に届けられず、出航後に届けられた名簿によれば、乗客、乗員四八名で定員を四名超過していたこと、このような経営状態を反映して、会社から第一富士丸の乗員に対する緊急部署などの教育や指導、乗員から乗客に対する安全指導などが十分になされていなかったこと、同船は漁船を改造した遊漁船であったため、操舵室から見た前方に死角があったうえ、多数の乗客を乗せて航行していたのであるから、東京湾などの船舶が輻輳するところでは、安全を確保するため、常時見張員を配置するなどしても然るべきところ、乗員の笹子久信や平間惣一郎らが一部その任にあたっていたものの十分ではなかったこと、同船では操船の資格を持っていたものが被告人乙川だけであったことなど、被告人乙川の乗船期間やその置かれていた立場、富士商事有限会社の経営状態、第一富士丸の乗員の資質とこれに対する教育や指導の程度などに鑑みると、これらの諸点が本件事故の発生や被害の拡大の遠因となっていることを看過できない。したがって、第一富士丸においても、本件事故の責任を、被告人乙川にのみ帰するこができない面がある。

五  死亡者の多くは、第一富士丸の客室にいた人達であるが、同船は漁船を改造した遊漁船であったため、出入口が左舷にあったことなど、その構造から被害が拡大した様子も窺われる。

六  被告人甲野は、防衛大学校を卒業して海上自衛隊に入隊し、昭和六二年一月二等海佐になるなど順調に昇任し、将来を嘱望されていたもの、被告人乙川は、鳥羽商船高等専門学校を卒業して各種の船舶に乗組み、その技術と資格を生かして真面目な社会生活を送ってきたものであり、いずれも本件事故を除いてはこれまで健全な社会人であったものであること、本件事故により被告人甲野は、自衛隊内部において制裁を受けたほか、起訴と同時に休職処分となり、被告人乙川も船を降り暫くはアルバイトの身分を経て現在は建材店従業員であることなど、いずれも既に社会的制裁を受けていること、自衛隊においては、乗客、乗員の遺族や乗客の生存者との間で和解をするなどして総額二一億円の損害賠償を行い、また、死亡した乗客二八名に対しては保険会社から一人当たり四〇〇〇万円の保険金が支払われ、死亡した乗員二名に対しては富士商事有限会社から弔意金各三三〇万円が支払われ、或いはその用意がされていることなど、損害賠償がほぼ終っていること、被告人両名は、それぞれの立場で遺族を見舞い、仏事に参列するなど本件事故を反省し、その結果に対し真摯な反省の態度を示していることなど、量刑上斟酌すべき事情が認められる。

七  以上、諸般の事情を勘案のうえ、被告人両名間において過失の度合いに格段の差がないことを考慮すれば、結局、被告人両名に対し、直ちに実刑を科することは躊躇されるので、実刑にするよりは刑の執行を猶予するのが相当と判断した。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官杉山忠雄 裁判官髙橋正 裁判官河合裕行)

(別紙 一)死亡者<省略>

(別紙 二)受傷者<省略>

(別紙三、四の添付書類)

(別紙 三)

(別紙 四)

③NZ-③-

3往

の平均

4復

変速艦体運動:NZ-③-

3

の平均

4

停止下令からの経過時間

(分一秒)

速力(kt)

進出距離(m)

針路(度)

前進方向

横方向

(原針路からの変角)

0-00

10.8

0

0

0

10

10.7

56

0

0

20

10.2

109

0

0

30

9.6

159

0

0

40

9.1

208

0

0

50

8.7

253

0

0

1-00

8.3

296

0

0

10

8.1

338

0

0

20

8.4

381

0

右 1

30

8.3

424

右 3

右 6

40

7.8

464

右 8

右11

50

7.1

502

右17

右17

2-00

6.0

533

右29

右25

10

4.4

556

右40

右33

20

2.8

572

右51

右40

30

1.3

579

右58

右46

40

0.3

582

右60

右50

42

0

583

右61

右51

③NZ-③-

1往

の平均

2復

変速艦体運動:NZ-③-

1

の平均

2

停止下令からの経過時間

(分一秒)

速力(kt)

進出距離(m)

針路(度)

前進方向

横方向

(原針路からの変角)

0-00

10.8

0

0

0

10

10.8

56

0

0

20

10.3

110

0

0

30

9.6

160

0

0

40

9.2

209

0

0

50

8.7

254

0

0

1-00

8.4

298

0

0

10

8.2

341

0

0

20

8.4

384

0

右 1

30

8.4

426

右 2

右 3

40

8.0

468

右 4

右 5

50

7.3

507

右 9

右 9

2-00

6.2

541

右16

右16

10

4.8

568

右26

右23

20

3.0

586

右34

右32

30

1.5

595

右41

右41

40

0.4

598

右44

右48

43

0

599

右44

右50

(別紙五)

(別紙 六)

(別紙 七)

(別紙 八)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
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